2020年10月03日
J/草枕③夏目漱石
日本文学の旅
草 枕③ 夏目漱石

阿蘇・産山村
■画想、ようやく決まる
別の日、写生をするつもりで丘を登った。みかん畑が一面につづき、足のしたには海が見えていた。
ごろりと横たわって思索にふけっているところへ。突然、男の声がした。野武士のようないかつい男だった。そしてもうひとり。那美がいた。男と女は向き合って立ったまま、動く気配がない。ようやく左右に別れると、那美は画家に歩みよってきた。先刻の男が離縁した先夫であること、満州へ発っていくこと、お金をもらいにきたことなどを話した。
いっしょに宿へ帰る途中、那美の兄の家に立ち寄った。甥の久一が満州へ出征するので、餞別の品、白鞘(しらさや)の短刀を届けに来たのだった。
出征する久一を川舟に乗って停車場まで見送りに行く一行に、画家も同行した。日露戦争は若者の運命をぐいぐい満州の野づらにたぐり寄せていく。「死んでおいで」という那美。「めでたく凱旋して帰れ」という老人。それぞれの目に涙が光っていた。三等列車に乗り込む久一。車輪がひとつ回れば、すべての因果は断ち切られる。車掌がピシャリと戸を閉め、鉄車はごとりと動きだした。
その一瞬のことである、那美は、別の車窓に零落しはてた先夫のすがたを見た。力がぬけ茫然と立ちつくす那美の表情に、それまでに見たことのない“あわれ”を見た。画家が探しつづけてきた画想は、このときにひらめき、完成したのだった。
† †
漱石の初期の代表作『草枕』は、明治39年、雑誌『新小説』9月号に発表された。この作はふつうの小説とはだいぶかけ離れ、漱石自身も「天地開びゃく以来、類のないもの」と言っているが、たしかにここには、プロットもなければ事件の展開もない。作中の中心人物は、ジッと動かず、その観察者としての視点のみが右へ左へと動いているのみ。作者はここで、俗人情を超越した「非人情」の境地への解脱にいたり、それをさまざまに対象化している。漱石の芸術観、人生観を解き明かすうえで欠かすことのできない作品と言えよう。凡人には思いおよばぬ構成と形式、比類ない美文調は、まさくく日本文芸の主潮の極みである。

小天温泉那古井館露天風呂
〔夏目漱石略歴〕
✦慶応3年、牛込馬場下(現新宿区喜久井町1)で末子(5男)として生まれる。その出生は祝福されず、生後間もなく四谷の古道具屋へ里子に出される。毎晩、大通りの夜店で籠にいれられたまま放置されていたとかで連れ戻された。明治21年、22歳、第一中学校本科に入学、同級には山田眉妙、上級には川上眉山、尾崎紅葉らがいて硯友社を結成、「我楽多文庫」を発刊した。明治22年、同級生の正岡子規と知り合い、漱石の文学的生涯が決定した。明治23年、帝国大学英文科に入学、26年に卒業、高等師範学校の英語講師となる。28年、松山中学校の英語教師に就任、30年12月、山川信次郎とともに小天(おあま)温泉に旅し、前田案山子(かがし)の温泉宿に泊まる。『草枕』の素材はこの旅からとられたもの。
✦明治33年、34歳、英語研究のため2年間英国に留学。36年1月に帰国し一高の講師に。37年、高浜虚子のすすめで『吾輩は猫である』を書く。つづいて『倫敦塔』『一夜』などを書き、一躍文名を高めた。40年、教壇を去って朝日新聞社に入り、執筆生活に専念。以来、大正5年12月、『明暗』の完成を待たずに永眠、その間、多数の名作を残し、日本文壇の主峰をなした。代表作には、上掲の作のほか、『虞美人草』『三四郎』『それから』『彼岸過迄』『門』『行人』『こころ』『硝子戸の中』『道草』などがある。
草 枕③ 夏目漱石

阿蘇・産山村
■画想、ようやく決まる
別の日、写生をするつもりで丘を登った。みかん畑が一面につづき、足のしたには海が見えていた。
ごろりと横たわって思索にふけっているところへ。突然、男の声がした。野武士のようないかつい男だった。そしてもうひとり。那美がいた。男と女は向き合って立ったまま、動く気配がない。ようやく左右に別れると、那美は画家に歩みよってきた。先刻の男が離縁した先夫であること、満州へ発っていくこと、お金をもらいにきたことなどを話した。
いっしょに宿へ帰る途中、那美の兄の家に立ち寄った。甥の久一が満州へ出征するので、餞別の品、白鞘(しらさや)の短刀を届けに来たのだった。
出征する久一を川舟に乗って停車場まで見送りに行く一行に、画家も同行した。日露戦争は若者の運命をぐいぐい満州の野づらにたぐり寄せていく。「死んでおいで」という那美。「めでたく凱旋して帰れ」という老人。それぞれの目に涙が光っていた。三等列車に乗り込む久一。車輪がひとつ回れば、すべての因果は断ち切られる。車掌がピシャリと戸を閉め、鉄車はごとりと動きだした。
その一瞬のことである、那美は、別の車窓に零落しはてた先夫のすがたを見た。力がぬけ茫然と立ちつくす那美の表情に、それまでに見たことのない“あわれ”を見た。画家が探しつづけてきた画想は、このときにひらめき、完成したのだった。
† †
漱石の初期の代表作『草枕』は、明治39年、雑誌『新小説』9月号に発表された。この作はふつうの小説とはだいぶかけ離れ、漱石自身も「天地開びゃく以来、類のないもの」と言っているが、たしかにここには、プロットもなければ事件の展開もない。作中の中心人物は、ジッと動かず、その観察者としての視点のみが右へ左へと動いているのみ。作者はここで、俗人情を超越した「非人情」の境地への解脱にいたり、それをさまざまに対象化している。漱石の芸術観、人生観を解き明かすうえで欠かすことのできない作品と言えよう。凡人には思いおよばぬ構成と形式、比類ない美文調は、まさくく日本文芸の主潮の極みである。

小天温泉那古井館露天風呂
〔夏目漱石略歴〕
✦慶応3年、牛込馬場下(現新宿区喜久井町1)で末子(5男)として生まれる。その出生は祝福されず、生後間もなく四谷の古道具屋へ里子に出される。毎晩、大通りの夜店で籠にいれられたまま放置されていたとかで連れ戻された。明治21年、22歳、第一中学校本科に入学、同級には山田眉妙、上級には川上眉山、尾崎紅葉らがいて硯友社を結成、「我楽多文庫」を発刊した。明治22年、同級生の正岡子規と知り合い、漱石の文学的生涯が決定した。明治23年、帝国大学英文科に入学、26年に卒業、高等師範学校の英語講師となる。28年、松山中学校の英語教師に就任、30年12月、山川信次郎とともに小天(おあま)温泉に旅し、前田案山子(かがし)の温泉宿に泊まる。『草枕』の素材はこの旅からとられたもの。
✦明治33年、34歳、英語研究のため2年間英国に留学。36年1月に帰国し一高の講師に。37年、高浜虚子のすすめで『吾輩は猫である』を書く。つづいて『倫敦塔』『一夜』などを書き、一躍文名を高めた。40年、教壇を去って朝日新聞社に入り、執筆生活に専念。以来、大正5年12月、『明暗』の完成を待たずに永眠、その間、多数の名作を残し、日本文壇の主峰をなした。代表作には、上掲の作のほか、『虞美人草』『三四郎』『それから』『彼岸過迄』『門』『行人』『こころ』『硝子戸の中』『道草』などがある。
Posted by 〔がの〕さん at 11:05│Comments(0)
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