2016年04月13日

E/「怒る」こと、「叱る」こと

「怒る」こと、「叱る」こと
     -落語家桂才賀師匠の講演から―




 子どもを叱らない、いや、叱れない親が多くなっていると聞きます。どうしていますか、あなたは? 毎日のようにニュースで聞く乳幼児虐待も、忌々しき問題ですが。
 やさしいばかりではすまされない場合があります。どこでも目にする、目に余る子どもの行儀の悪さ、悪質なイタズラにも、叱らないどころか、まわりの人が見かねて注意しようものなら、逆ギレして怨んだりする親さえも。そうかと思えば、牛馬に対するように子どもを怒鳴りつける親がいたり。嘆かわしいことには、そのどちらでもなく、われ関せずで、見て見ぬふりをする人が大多数。たしかに、怒るにせよ叱るにせよ、互いの関係性が大事で、ワルを見てすぐ「コノヤロウ!」とはならないのはもちろんです。
 さて、「怒る」と「叱る」は、どこがどう違うのでしょうか。
          ☆
 去る日、横浜市青少年指導員大会の第二部が記念講演。落語家の桂才賀師匠による1時間半にわたる話でした。落語が演じられたわけではありません。ただ、付言させてもらうなら、古典落語というのは、本来、一種の説法であり、どこかにかならず「教える」「諭す」というものがあって、教訓を笑いのコロモにくるんで語ってきた、そういうものだそうで、わたしは初めて、なるほどとそのことを知りました。
この日は、落語ではなく、「子どもを叱れない親たち」と題し、師匠が少年院篤志面接委員として出会ってきた青少年のこころの内側を、これはさすがに還暦をすぎた噺家、円熟した名調子で語ってくれました。



ところで、みなさんは桂才賀という落語家をご存知でしたか? 恥ずかしながら、わたしにとっては初めて見る人、初めて知る人でした。1980年代の8年間、日本テレビの人気番組「笑点」のレギュラー・メンバーだったそうですね。1985年に真打ちに昇進しています。
 この人、東京・羽田の生まれ、飛行=非行と縁が切れない宿命にあるとかで、法務省の「少年院篤志面接委員」という、あまり聞きなれない肩書きをもっています。奥さんが沖縄の人で、あるとき、子どもさんをつれて里帰り。ムコどのとしてはどこに身をおいたらいいかわからずヒマをもてあまして、なんとなく近くにある少年院を訪問しました。この沖縄は、中学生の逮捕補導率で全国トップのところとか。その後、北海道に行ったら、そこの少年院に沖縄で出会っていた所長が転任してきていて、やあやあ、となり、何の因果か、これを契機に日本じゅうの少年院をめぐることになったそうです。日本全国にはいま53の少年院があり、その全部をまわって、現在は3巡目。いっさい無償のボランティアで、交通費さえ出してもらえない活動。よくやりますね。わたしたちの知らない、高い塀の中で、自分の犯した罪と向かい合いながら毎日をすごす数万の若ものたちと、以来四半世紀あまりにわたって対話してきたことになります。
 保護司という人が各地に52,500人おり、この人たちは刑を終えた青少年の自立と健全育成にあたっています。一方、少年院篤志面接委員というのは、全国に800人弱いて、保護処分を受けて少年院に入っている若ものたちの自立と心身の健全育成の任意をあずかっています。めったにその活動が外部の人に知らされることはありません。
 正確なところは知りませんが、罪を犯した未成年者は、ふつう、2週間程度の鑑別所生活ののち裁判にかけられ、家庭裁判所から保護処分を受けたとき少年院に送致されます。そこでの判断基準は、多くの場合、ダメ親、ダメ生活環境で、そこに置いておいても子どもに改善が期待できないとされるとき。親の無関心・無理解と愛情不足、あるいはその逆の、イビツな愛情過多の場合もある。若ものを犯罪に走らせる要因には、それが大きいようです。
 家庭から、学校から、さまざまな理由ではじき出された子どもたち。その少年院の子どもたちに川柳や詩をつくらせることがあるそうです。
  「たまにはよ 叱ってみろよ おとなたち」
  「この人は 向いてないのに 教育者」
叱れないおとなの弱みに乗じて悪に走った子どものすがたが見えてきませんか。いかがでしょうか、あなたは“あぶない”若ものを前にして叱る自信がありますか? 教える、諭す、という上からの目線は嫌われがちですが、必要なとき、叱らねばならないときにはしっかり叱れるおとなでありたい。叱るもの=し(っ)かりもの、というわけ。


          
  「笑顔にまさる化粧なし」 
さて、「怒る」とはどういうことか。「叱る」とはどういうことか。
 ずっとずっと以前、どこで触れたか思い出せませんが、関西のPさんという長く外国語教育に当たって来られた方の叱り方のじょうずさを、あるブログのページで書いた記憶があります。「怒る」とは、こちら側の利得と都合とメンツに立って、感情にまかせて一方的に相手を責めること、と言えるでしょうか。「怒髪冠を衝く」という故事にも見るように、そこには荒々しさ、衝動的な激しさがありますね。弱者を「怒罵」するすがた、だれであれ、怒り罵るすがたは、美しいものではありません。
一方、「叱る」はどうか。相手の立場や事情もわきまえたうえで、あやまちを強い態度で戒める、しっかり注意して正してやること。「叱責」してアタマからなじる、否定するのではなく、「叱咤激励」ということばがあるように、相手の立場に立っていっしょに考え、あるべき方向へ率直に導いてやる、励ましてやる、冷静に、余裕を持って。



 また、才賀師匠が女子の受刑者の前でよく話したり色紙に書いたりすることばは、「笑顔にまさる化粧なし」。こころを飾り人間を飾るのは、化粧品ではなく、自然に生まれる笑顔。これは、女子の心得として大事にしてもらうことばであるとともに、だれもがいつも胸に持っていたいことばですね。



 地域にあって、若ものたちの心身にわたる健全育成をあずかる青少年指導員。これは、子どもたちの成長と教育を全的にあずかる教育者、保護者の立場とかなり近い距離にありはしないでしょうか。犯罪に走らせない、犯罪に巻き込まれない青少年づくり、また、地域の社会的資源としてのしっかりした社会力をつける、…その活動を通じて、安心できる町、安定した地域づくりの一端をにないあう両者。ただ、教育をあずかるものがもしその社会的使命を忘れてそれぞれの専門的分野、たとえば語学教育、たとえば音楽教育、たとえば体育教育の、狭隘な夜郎自大の行き過ぎた至上主義に走り、それをよしとし、利潤追求を金科玉条とするなら、話はぜんぜん別ですけれど。

※写真のiron art はARTchung, Baby より借用したもの。テーマは「愛」。本文とは関係ありません。
  


Posted by 〔がの〕さん at 12:35Comments(0)社会教育

2016年03月08日

E/「めんどくさい」からの脱出

「めんどくさい」からの脱出
    ――壊れたこころを癒し、生きる力を再開発する 

 去る秋のある日、青少年指導員の研修の一環で、市の主催する講演会に地区を代表して行ってきたことがありました。
 講師は、某医科大学の講師であり泌尿器科の医師で、テーマは「思春期の心と性」。女子中学生・高校生の性に対する無知、命の意味など、「めんどくさい」(めんどい)で一切の思考を停めてしまう若もの、考えることを拒否する若もののすがたにふれ、驚愕させられました。自殺を含む自傷者の多さ、いじめ、児童虐待の多いという事実にも驚かされますが。
 「めんどくさい」として無関心な態度を決め込むのは、子どもたちに限ったことではありませんね。わたしたちの周囲にはびこり病気のように広がっていると、時折感じます。他者の経験から謙虚に、真摯に学ぼうとする努力を喪ったすがた。どうでしょうか、身に覚えはありませんか?



 「めんどくさい」とは別に、このごろ、学校の給食で「いただきます」「ごちそうさま」を言わない子もいるとか。まさか! とお思いでしょが、事実、学校ではけっこうそういう子がいるのだそうです。どうして言わないのか。給食費をちゃんと自分の親が払っているのだから、言う意味がわからない、という。だれに感謝して「ごちそうさま」をいうのか、と。なるほど、そういう理屈もあるのか、と驚かされますが、学校給食で「ごちそうさま」を言わない「合理性」とは、どういうもんでしょうかね。親の過保護によってのみ生かされている、まわりの見えない、もうひとつ向こうが見えない存在。
 子どもたちは、過剰なほどにいろいろな人の愛に包まれていながら、その「愛」はどこか偏端なもので、本質的には深くつながっていない、ということ。「愛」の反対概念は何か? 愛憎の「憎」と応える人が多いと思いますが、それはこのごろは違うらしい。「無関心」だそうです。こころを踊らせることを知らない、冷めて、考えることを放棄した生き方ですね。想像力の欠如と言えるのではないかとわたしは思うのですが。



 わたしはどうもケータイやスマホが苦手で、ふだんほとんど使うことはないのですが、ちょっと問題があって面倒をみている女子中学生がいて、何か緊急なことがあったら連絡するように、とメールアドレスを教えました。電源はいつも切っているか、マナーモードにしてあります。その日、文化講座で人の前で話をすることがあって、2時間ほどケータイを手放しました。終わって、ふと見れば、そのあいだに、その子から十数通ものメールが入っていました。内容はみなほぼ同じ、どれも他愛もないことでした。いまどきの中学生はメールを送って、内容はともかく、返事がくるのを5分と待てないみたいですね。「おじさんはなあ、仕事中なんだよ」と返事してやれば、「あ、そうか」。相手のことを想像することもできないこんな調子ですから、子どもどうしのあいだでは返事が遅れただけで友情は簡単に壊れる、人間関係がケータイで壊される、いや、すぐに壊れてしまうような希薄な関係性しか持っていないのがいまどきの若もの像なのでしょうか。
 人と人との関係のなかで自分のプライドが保てない、自分のこだわりが理解されることなく解消できない――それが生むストレス。しかし、そこをぐっと耐えるのが人間を育てる場であることを、わたしたち大人はコミュニティのかかわりのなかで伝えていかねばならないように思います。



 例は適当ではないかも知れませんが、たとえば、なぜわたしは万引きをしないんでしょうか。なぜ痴漢をしないんでしょうか。なぜ他人のお金を横領しないんでしょうか。なぜ人をいじめたり殺したりしないんでしょうか。たぶん、これからもそういうことはしないだろうと思います。清廉潔癖な聖人君子だから? 円満具足の幸せものだから? いやいや、とんでもありません。小心で意気地がないだけかもしれませんが、良識とまでは言わないまでも、それなりに自分のストレスをマネージメントする能力が備わっているからであり、想像力を備えているからにほかなりませんね。衝動に駆られてそれをやってしまったら、おてんとさまに恥ずかしい、一家一族は世間に顔向けできなくなるだろうし、それまでいい関係にあった知人・友人との信頼を裏切ることにもなる。そう思って自制することを「理性」というのかも知れませんが、それこそが想像力でありコミュニケーション力。煎じつめて言うなら、わたしのこころがまだそんなに病んでいないからですね。(身体的には加齢とともにボロボロですが)



 人と人とのあいだで存在するのが人間。ところが、氾濫する情報のなかで自分が見つけられず、他者との関係性を喪って孤立を深める若い世代。いろいろな違った関係、多様なつながり方のなかで子どもが自分を見つけ、社会力を体得していくスタイルは、多く地域でつくられていくと思っています。

 他とのかかわりの少ない、ほんとうのつながりを持たない若ものに、どうやってコミュニケーション能力を育てるか。心地よいコミュニケーションの取り組みとしてその日の講師が挙げていたのは、(えらいね、と)褒めてあげること、(ありがとう、と)感謝してあげること、(いいんだよ、と)認めてあげること。犯してしまった反社会的な行為について、いっしょに受け止めながら、これからの生き方を探ること。情報がいくらあっても、教育がいくらあっても、それは生きた知識とはならず、生きた知識とコミュニケーション能力が合わさって“LIFE SKILL”生きる力になっていくという論理。
 こころに病いを持たない(と思う)わたしたちが、身を低くしてもっともっと地域の子どもたちにふれることが求められているように思いました。
  


Posted by 〔がの〕さん at 12:20Comments(2)社会教育