2025年03月21日
JC/遠藤周作「深い河」
深い河 遠藤周作

◆転生した妻を求めて
ひとは死んで再び何かに生まれ変わるという宗教感覚。遥か遠い時代、エジプトやメソポタミヤの文明とともにあったそういう考え方は、人間の切実な願望、死への怖れ、死者を悼むこころ、喪失感からの解放などから生まれた、ごく自然な観念だったのだろうか。
が、それは意外にすばらしい癒しの思想でもある。夫婦が死のまぎわに、気やすめに「生まれかわったらまたいっしょになろう」と言い合う俗っぽさ、また心中物語などの常套句で、「この世では添えなかったが、あの世では(生まれ変わったら)いっしょになろう」などといった種の安っぽい感傷も、もしかするとたいへん崇高な思想なのかも知れない。

キリスト教文学の金字塔とされる名作『沈黙』でよく知られる遠藤周作。絶妙なシャレや冗談が好きで、“狐狸庵”先生として広く親しまれた一面もある作家。この作家は1996年に亡くなっているが、その晩年、最後に書き残したのがこの『深い河』。死のまぎわに書き落したもので、作者のここに注ぐ思いには格別に深いものがある。
すでに企業戦士としての第一線を退き、年金生活をしている磯部。癌で妻を失う。とりたててすぐれたところがあるわけでもない、ごくふつうの、慎ましく謙虚にして堅実な女。美しいわけでもない、教養があるわけでもない、旧世代の典型的な、邪魔にならないよき女。その妻が死の床で「わたしが死んだら、必ずどこかで生まれ変わるから、ぜったいに探してね」ということばを残す。その場かぎりの甘えた戯れごと、世迷いごととしてその場では聞き流していたが、そのことばがのちのちまで磯部のこころの奥に滓(おり)のようにしてずう~っと残る。
転生したはずの妻を求めて、アメリカの大学に問い合わせ、世界の生まれ変わりの事例を照会してもらう。インドのヴァーラーナスィ(ベナレス)にそれらしい子どもがいるとの照会を得て、磯部はインドへのツアーに参加する。さまざまな事情、さまざまな人生を抱えた人たちとともに、ヒンドゥー教の世界、死霊の世界、死のためにそこに集まって来ている人びとの周辺を見て歩くことになる。ガンジス川とガート(川に降りるための石段)のまわりに広がる壮大な死の風景をまざまざと。生活のために交わってきた他人は無数にいるが、人生のなかで本当にふれあったのは、生涯に二人、母と妻しかいないことに思いいたる。亡き妻を求めてこうしてこのような地を放浪する磯部の旅は、あまりにも空しく悲しい。
◆インドの聖母との出会い
そこで目にしたのは、チャームンダーという女神像。うす暗く、むせ返るような熱さの充満した洞窟のなかで見た石の像。その乳房は老婆のもののように萎えて垂れ、いささかのふくらみすらもない。右足を見ると、ハンセン病(らい病)のため半分ほどえぐられ、爛れている。餓えのために肋骨が浮き出て、腹は背中にくっつくほどにへこんでいる。しかも、その腹のうえにはサソリが噛みついている。女神はそうした病苦、苦痛に耐えながら、乳は出るのか出ないのか、萎びきった乳房をたくさんの子どもたちの口に含ませている――かつてインドの人びとが背負っていた苦悶を一手に抱え込んでいる女神。それはキリスト教の聖母マリアの清らかさ、優雅さ、端麗さとは、比べるのも虚しいほど、あまりにも遠く離れたイメージだ。見ていると気分が悪くなるほど、醜く老い果て、苦しみ喘ぎ、それでもヤケをおこして自暴自棄になることもなく、周囲の目など気にするふうもない。ただ耐えている。これがインドの母、インドの聖母なのだと女神像は無言のうちに語っている。
遠藤周作が自身の生の最後のときにこのすさまじい女神に出会い、そのイメージをこころに抱いて73歳の生を閉じていったことが、はたして幸せだったか、救いになったかどうかは、わからない。死というものをいっそう暗い、救いのない苦しいものにしたか知れないし、あるいは彼のなかの無明の迷いを、この女神が掬いとってくれて、安心立命のうちに天国へ渡って行ったかも知れない。
◆インドの懐ろの深さ
磯部とともに、作中で鮮烈な印象をつくっているのは、大津という人物。ここに遠藤の思想のなかのイエス・キリスト像があり、遠藤自身を彷彿とさせものがある。「彼は醜く、威厳もない。みじめでみすぼらしい。人は彼を蔑み、見捨てた……人に侮られ…たが、彼は我われの病いを負い、我われの悲しみを担った」。日本社会で捨てられ、魂の闇にもがき苦しみ、神父にもなりきれず、各地を放浪。イスラエルのガリラヤ湖畔の修道院でも、フランスのリヨンの修道院でも、みんなに疎まれ、挙句にはヒンドゥー教徒たちの集う不潔なアシュラム(道場)で拾われる。そこで、行き倒れた死者たちを見つけては聖なる河・ガンジスに葬ることに生きる。そして日本から来た軽薄なお調子者のカメラマンをかばったことで、暴徒と化したシーク教徒に殴り殺される。「ぼくは、これでいいんだ、これで」ということばを残して。死体運びの卑しい男として、だれにも知られることなく死んでいく男。
さらに、インド哲学を修めながら、ろくな職業にも就けず、いまは観光客の添乗員をしながらインドのすがたを見つめつづけている江波という男にも、なんともいいがたい侘しさがある。いまは違うが、かつてのインドは、臭い、汚いなどといって馴染もうとせず、勝手なことを言っては困らせるこの飽食時代の、程度の低いツアー客を相手に、ときには腹を立てることもあるが、それでも自分を惹きつけてやまないインドの、深い懐ろのぬくみと、そこに生きる人びとのこころの世界を、一人でも多くの人に伝えようと身を粉にするその真率さ、そのすがすがしいすがたに、尽きぬ感動をおぼえる。


◆転生した妻を求めて
ひとは死んで再び何かに生まれ変わるという宗教感覚。遥か遠い時代、エジプトやメソポタミヤの文明とともにあったそういう考え方は、人間の切実な願望、死への怖れ、死者を悼むこころ、喪失感からの解放などから生まれた、ごく自然な観念だったのだろうか。
が、それは意外にすばらしい癒しの思想でもある。夫婦が死のまぎわに、気やすめに「生まれかわったらまたいっしょになろう」と言い合う俗っぽさ、また心中物語などの常套句で、「この世では添えなかったが、あの世では(生まれ変わったら)いっしょになろう」などといった種の安っぽい感傷も、もしかするとたいへん崇高な思想なのかも知れない。

キリスト教文学の金字塔とされる名作『沈黙』でよく知られる遠藤周作。絶妙なシャレや冗談が好きで、“狐狸庵”先生として広く親しまれた一面もある作家。この作家は1996年に亡くなっているが、その晩年、最後に書き残したのがこの『深い河』。死のまぎわに書き落したもので、作者のここに注ぐ思いには格別に深いものがある。
すでに企業戦士としての第一線を退き、年金生活をしている磯部。癌で妻を失う。とりたててすぐれたところがあるわけでもない、ごくふつうの、慎ましく謙虚にして堅実な女。美しいわけでもない、教養があるわけでもない、旧世代の典型的な、邪魔にならないよき女。その妻が死の床で「わたしが死んだら、必ずどこかで生まれ変わるから、ぜったいに探してね」ということばを残す。その場かぎりの甘えた戯れごと、世迷いごととしてその場では聞き流していたが、そのことばがのちのちまで磯部のこころの奥に滓(おり)のようにしてずう~っと残る。
転生したはずの妻を求めて、アメリカの大学に問い合わせ、世界の生まれ変わりの事例を照会してもらう。インドのヴァーラーナスィ(ベナレス)にそれらしい子どもがいるとの照会を得て、磯部はインドへのツアーに参加する。さまざまな事情、さまざまな人生を抱えた人たちとともに、ヒンドゥー教の世界、死霊の世界、死のためにそこに集まって来ている人びとの周辺を見て歩くことになる。ガンジス川とガート(川に降りるための石段)のまわりに広がる壮大な死の風景をまざまざと。生活のために交わってきた他人は無数にいるが、人生のなかで本当にふれあったのは、生涯に二人、母と妻しかいないことに思いいたる。亡き妻を求めてこうしてこのような地を放浪する磯部の旅は、あまりにも空しく悲しい。
◆インドの聖母との出会い
そこで目にしたのは、チャームンダーという女神像。うす暗く、むせ返るような熱さの充満した洞窟のなかで見た石の像。その乳房は老婆のもののように萎えて垂れ、いささかのふくらみすらもない。右足を見ると、ハンセン病(らい病)のため半分ほどえぐられ、爛れている。餓えのために肋骨が浮き出て、腹は背中にくっつくほどにへこんでいる。しかも、その腹のうえにはサソリが噛みついている。女神はそうした病苦、苦痛に耐えながら、乳は出るのか出ないのか、萎びきった乳房をたくさんの子どもたちの口に含ませている――かつてインドの人びとが背負っていた苦悶を一手に抱え込んでいる女神。それはキリスト教の聖母マリアの清らかさ、優雅さ、端麗さとは、比べるのも虚しいほど、あまりにも遠く離れたイメージだ。見ていると気分が悪くなるほど、醜く老い果て、苦しみ喘ぎ、それでもヤケをおこして自暴自棄になることもなく、周囲の目など気にするふうもない。ただ耐えている。これがインドの母、インドの聖母なのだと女神像は無言のうちに語っている。
遠藤周作が自身の生の最後のときにこのすさまじい女神に出会い、そのイメージをこころに抱いて73歳の生を閉じていったことが、はたして幸せだったか、救いになったかどうかは、わからない。死というものをいっそう暗い、救いのない苦しいものにしたか知れないし、あるいは彼のなかの無明の迷いを、この女神が掬いとってくれて、安心立命のうちに天国へ渡って行ったかも知れない。
◆インドの懐ろの深さ
磯部とともに、作中で鮮烈な印象をつくっているのは、大津という人物。ここに遠藤の思想のなかのイエス・キリスト像があり、遠藤自身を彷彿とさせものがある。「彼は醜く、威厳もない。みじめでみすぼらしい。人は彼を蔑み、見捨てた……人に侮られ…たが、彼は我われの病いを負い、我われの悲しみを担った」。日本社会で捨てられ、魂の闇にもがき苦しみ、神父にもなりきれず、各地を放浪。イスラエルのガリラヤ湖畔の修道院でも、フランスのリヨンの修道院でも、みんなに疎まれ、挙句にはヒンドゥー教徒たちの集う不潔なアシュラム(道場)で拾われる。そこで、行き倒れた死者たちを見つけては聖なる河・ガンジスに葬ることに生きる。そして日本から来た軽薄なお調子者のカメラマンをかばったことで、暴徒と化したシーク教徒に殴り殺される。「ぼくは、これでいいんだ、これで」ということばを残して。死体運びの卑しい男として、だれにも知られることなく死んでいく男。
さらに、インド哲学を修めながら、ろくな職業にも就けず、いまは観光客の添乗員をしながらインドのすがたを見つめつづけている江波という男にも、なんともいいがたい侘しさがある。いまは違うが、かつてのインドは、臭い、汚いなどといって馴染もうとせず、勝手なことを言っては困らせるこの飽食時代の、程度の低いツアー客を相手に、ときには腹を立てることもあるが、それでも自分を惹きつけてやまないインドの、深い懐ろのぬくみと、そこに生きる人びとのこころの世界を、一人でも多くの人に伝えようと身を粉にするその真率さ、そのすがすがしいすがたに、尽きぬ感動をおぼえる。

2021年01月04日
J/放浪記③林芙美子
放浪記③林芙美子
■尾道の海への郷愁

尾道駅前の商店街入口にある芙美子帰郷のブロンズ像
その台座には「海が見えた。海が見える。五年ぶりに見る尾道の海」と刻まれている
旅に出たい、故郷に帰ろう、海が見たい――。矢も楯もたまらず、私は2枚の着物を風呂敷につつむと飄然(ひょうぜん)と下宿を出、芝浦から大阪へ向かう酒荷船に便乗させてもらった。ああ、尾道の海、ひとりぼっちの私が恋のようにあこがれる町、やみがたい思い。
つぎに帰郷したのは、それから約1年後だった。少女のころに吸った空気、恋をした山の寺、泳いだ海……、すべてがなつかしく、私はうらぶれたからだをゆすってボトボト涙をこぼした。
東京にもどると、以前どおりの飢餓線上の生活に逆もどり。帯や本をわずかばかりのお金に替えては、やっと空腹をしのいでいた。そんな日がつづいた3月のある日、浅草へ出た帰り、薬屋でカルモチンを買った。自死…。
ずしんずしんと地の底にからだがゆすりさげられていくような感じだった。どれくらいの時間がたっていたのか、意識がもどると、私の裸の胸にカフェーの仲間たちがぬれた手ぬぐいを当てていた。階下のおばさんが粥を運んできてくれた。私の耳のなかに熱い涙がゴボゴボはいっていく。ありがとう…。私は、生きていたいと切実に願った。

芙美子がかつて暮らしていたタバコ店跡
昭和5年、改造社から出版された『放浪記』は林芙美子の名を世に一躍させた出世作であることはもちろん、『風琴と魚の町』『泣虫小僧』『晩菊』『浮雲』などとともに、文字どおりの代表作である。作品は、木賃宿を渡り歩く幼児期の回想から始まるが、主舞台になっているのは、失業者や浮浪者が陋巷(ろうこう)にあふれる昭和初期の東京で、作者18歳から25歳ごろまでの日々が赤裸々につづられた生活記録と言える。さまざまな職業を転々とする主人公には、いたるところ三えと屈辱と孤独がつきまとう。しかしそこには、退廃的な雰囲気や感傷的な厭世感はなく、むしろ若い行動力と向上への強い意志にあふれ、むいたばかりの果実にも似たさわやかさ、新鮮さ、こころのふるさとへのひたむきな郷愁がある。

〔林芙美子〕 明治37(1904)年12月、山口県下関市に生まれる。本名はフミコ。一家は北九州の炭鉱地帯を行商して歩き、小学校は十数回も変わった。大正7年、15歳、尾道高女に入学、学費かせぎのため帆縫工場で夜勤などをした。同11年、尾道高女卒業と同時に愛人に連れられた上京、さまざまな職業を転々としながら同棲生活をしたが、翌年、男は郷里の因島に帰島、フミコの女学校時代の同級生と結婚してしまった。離婚後、日比谷、神楽坂、成子阪、道玄坂などに夜店を出し、自活の道を歩むことになった。
東京での困窮生活のなかで、萩原恭次郎、辻潤、壷井繁治、友谷静菜らアナーキズム派の詩人たちとの知己を得、また宇野浩二、徳田秋声らの指導を得て童話や詩を書くようになった。初期の代表作に『放浪記』『風琴と魚の町』『清貧の書』『春浅譜』『泣虫小僧』、後期の代表作には『波濤』『晩菊』『浮雲』など。『晩菊』で日本女流文学者賞を受ける。『めし』『女家族』『漣波』の完成を待つことなく、昭和26(1951)年、48歳で波乱万丈の生涯を閉じた。
■尾道の海への郷愁

尾道駅前の商店街入口にある芙美子帰郷のブロンズ像
その台座には「海が見えた。海が見える。五年ぶりに見る尾道の海」と刻まれている
旅に出たい、故郷に帰ろう、海が見たい――。矢も楯もたまらず、私は2枚の着物を風呂敷につつむと飄然(ひょうぜん)と下宿を出、芝浦から大阪へ向かう酒荷船に便乗させてもらった。ああ、尾道の海、ひとりぼっちの私が恋のようにあこがれる町、やみがたい思い。
つぎに帰郷したのは、それから約1年後だった。少女のころに吸った空気、恋をした山の寺、泳いだ海……、すべてがなつかしく、私はうらぶれたからだをゆすってボトボト涙をこぼした。
東京にもどると、以前どおりの飢餓線上の生活に逆もどり。帯や本をわずかばかりのお金に替えては、やっと空腹をしのいでいた。そんな日がつづいた3月のある日、浅草へ出た帰り、薬屋でカルモチンを買った。自死…。
ずしんずしんと地の底にからだがゆすりさげられていくような感じだった。どれくらいの時間がたっていたのか、意識がもどると、私の裸の胸にカフェーの仲間たちがぬれた手ぬぐいを当てていた。階下のおばさんが粥を運んできてくれた。私の耳のなかに熱い涙がゴボゴボはいっていく。ありがとう…。私は、生きていたいと切実に願った。

芙美子がかつて暮らしていたタバコ店跡
昭和5年、改造社から出版された『放浪記』は林芙美子の名を世に一躍させた出世作であることはもちろん、『風琴と魚の町』『泣虫小僧』『晩菊』『浮雲』などとともに、文字どおりの代表作である。作品は、木賃宿を渡り歩く幼児期の回想から始まるが、主舞台になっているのは、失業者や浮浪者が陋巷(ろうこう)にあふれる昭和初期の東京で、作者18歳から25歳ごろまでの日々が赤裸々につづられた生活記録と言える。さまざまな職業を転々とする主人公には、いたるところ三えと屈辱と孤独がつきまとう。しかしそこには、退廃的な雰囲気や感傷的な厭世感はなく、むしろ若い行動力と向上への強い意志にあふれ、むいたばかりの果実にも似たさわやかさ、新鮮さ、こころのふるさとへのひたむきな郷愁がある。

〔林芙美子〕 明治37(1904)年12月、山口県下関市に生まれる。本名はフミコ。一家は北九州の炭鉱地帯を行商して歩き、小学校は十数回も変わった。大正7年、15歳、尾道高女に入学、学費かせぎのため帆縫工場で夜勤などをした。同11年、尾道高女卒業と同時に愛人に連れられた上京、さまざまな職業を転々としながら同棲生活をしたが、翌年、男は郷里の因島に帰島、フミコの女学校時代の同級生と結婚してしまった。離婚後、日比谷、神楽坂、成子阪、道玄坂などに夜店を出し、自活の道を歩むことになった。
東京での困窮生活のなかで、萩原恭次郎、辻潤、壷井繁治、友谷静菜らアナーキズム派の詩人たちとの知己を得、また宇野浩二、徳田秋声らの指導を得て童話や詩を書くようになった。初期の代表作に『放浪記』『風琴と魚の町』『清貧の書』『春浅譜』『泣虫小僧』、後期の代表作には『波濤』『晩菊』『浮雲』など。『晩菊』で日本女流文学者賞を受ける。『めし』『女家族』『漣波』の完成を待つことなく、昭和26(1951)年、48歳で波乱万丈の生涯を閉じた。
2020年12月02日
J/放浪記②林芙美子
放浪記② 林芙美子
■飢えと孤独と彷徨と
小説家の近松秋江(ちかまつしゅうこう)の家の女中奉公が泥沼生活の振り出しだった。よく泣く百合子という子どもの子守が仕事だったが、2週間ほどでここからひまが出た。もらった紙包みにはいっていたのは2円。2週間余で2円! 私は、足の先から冷たい血がのぼるような思いだった。その夜は、新宿の木賃宿に泊まった。あすの日の何も約束されていない泥のような身をそこに横たえ、豆ランプの下で私を捨てていった男へ、希望のない長い手紙を書いた。
4か月ほどのち、渋谷の道玄坂に夜店を張ることになった。裸になりついでにうんと働いてやろうとこころに決めた。戸板のうえにメリヤスのさるまたをひろげ、「20銭均一」の札をさげて商売を始めた。だが、それから日もたたない4月のある日、露店の世話をしてくれたひとが電車に轢かれるというアクシデントがあり、夜店はたたまねばならなくなった。

派出婦の仕事にありついたが、これも長く続かず、つぎはセルロイド工場の色つけ工女として日給45銭をもらうようになった。ゴムくさい製品にうずまってセルロイドのキューピーや蝶々に三原色の色を塗りたくるのが仕事。太陽から隔離された工場での無限に長い労働の時間、青春とその時間を搾取される女工たち……。日給袋を受け取り、はなやかな町のなかに出てみると、私はいっさいのものに火をつけてやりたいような、濁った興奮を感じた。
数か月後、私には男ができていた。彼は新劇の俳優で、島村抱月・松井須磨子の「芸術座」の幹部級だった。劇の相手女優がその情人であることに気づかぬまま同棲生活にのめりこんでしまった。私は、地球がまっぷたつに割れてしまうことを願った。ワンタンの屋台に首を突っ込み、支那酒をガブッとあおって、私は味気ない男の旅愁を一気に吐き捨てた。

それからの私は、ムチャクチャな世界へ駆け足だった。「15銭でいいよ、接吻しておくれよ」と、酒場で見知らぬ客にからんだ思い出も、苦々しく胸のなかにくすぶっている。
神田や新宿、浅草、横浜などのカフェーの女給、料理屋の女給、株屋の店員、毛糸屋の売り子、筆耕、産婆の助手見習いなど、あらゆる職業を転々としながら大都会のドン底生活をなる尽くした私は、一方では、アナーキスト詩人たちにまじって童話や詩作をはじめていた。その間も、働いても働いても飢えから解放されたことは片時もなかった。ひとにぎりの白いにぎりめしがどれほどほしかったか。階下のひとたちが風呂に出かけたすきに、みそ汁を盗んですすったこともあった。私は空っぽのボロカス女、生きていく才もなければ富もない、生きていく美しさなどかけらほどもない。(つづく)
■飢えと孤独と彷徨と
小説家の近松秋江(ちかまつしゅうこう)の家の女中奉公が泥沼生活の振り出しだった。よく泣く百合子という子どもの子守が仕事だったが、2週間ほどでここからひまが出た。もらった紙包みにはいっていたのは2円。2週間余で2円! 私は、足の先から冷たい血がのぼるような思いだった。その夜は、新宿の木賃宿に泊まった。あすの日の何も約束されていない泥のような身をそこに横たえ、豆ランプの下で私を捨てていった男へ、希望のない長い手紙を書いた。
4か月ほどのち、渋谷の道玄坂に夜店を張ることになった。裸になりついでにうんと働いてやろうとこころに決めた。戸板のうえにメリヤスのさるまたをひろげ、「20銭均一」の札をさげて商売を始めた。だが、それから日もたたない4月のある日、露店の世話をしてくれたひとが電車に轢かれるというアクシデントがあり、夜店はたたまねばならなくなった。

派出婦の仕事にありついたが、これも長く続かず、つぎはセルロイド工場の色つけ工女として日給45銭をもらうようになった。ゴムくさい製品にうずまってセルロイドのキューピーや蝶々に三原色の色を塗りたくるのが仕事。太陽から隔離された工場での無限に長い労働の時間、青春とその時間を搾取される女工たち……。日給袋を受け取り、はなやかな町のなかに出てみると、私はいっさいのものに火をつけてやりたいような、濁った興奮を感じた。
数か月後、私には男ができていた。彼は新劇の俳優で、島村抱月・松井須磨子の「芸術座」の幹部級だった。劇の相手女優がその情人であることに気づかぬまま同棲生活にのめりこんでしまった。私は、地球がまっぷたつに割れてしまうことを願った。ワンタンの屋台に首を突っ込み、支那酒をガブッとあおって、私は味気ない男の旅愁を一気に吐き捨てた。

それからの私は、ムチャクチャな世界へ駆け足だった。「15銭でいいよ、接吻しておくれよ」と、酒場で見知らぬ客にからんだ思い出も、苦々しく胸のなかにくすぶっている。
神田や新宿、浅草、横浜などのカフェーの女給、料理屋の女給、株屋の店員、毛糸屋の売り子、筆耕、産婆の助手見習いなど、あらゆる職業を転々としながら大都会のドン底生活をなる尽くした私は、一方では、アナーキスト詩人たちにまじって童話や詩作をはじめていた。その間も、働いても働いても飢えから解放されたことは片時もなかった。ひとにぎりの白いにぎりめしがどれほどほしかったか。階下のひとたちが風呂に出かけたすきに、みそ汁を盗んですすったこともあった。私は空っぽのボロカス女、生きていく才もなければ富もない、生きていく美しさなどかけらほどもない。(つづく)