2013年08月11日

P/わたしの8月6日、8月9日

非戦の思い、新たに

シャーシャーというクマゼミの声が鼓膜を蔽い、天地を領する8月6日、8月9日。
日本の夏はまさにピーク。
これらの日、広島のうえに、長崎のうえに原爆が投下された。
68年前のことである。
この日をみなさんはどうお過ごしでしたか。
わたしの場合をすこしご紹介しつつ、
亡くなった多くの御霊にまことを捧げたく思います。

わたし自身には戦争の現実的な実感はまったくないというに近い。
いま社会の底辺にあって、機会あるごとに非戦の声をあげてきたつもりだが、
そんな声を嘲笑うかのように核の脅威は少しも減じることなく、
いよいよ人類の未来を見えないものにしている。
核をなくし、世界のどこからも憎しみと暴力をなくすためには、
わたしたち一人ひとりの力はあまりにも小さい。絶望的なほどに。
それでも、せめてこの8月には、世界の平和を祈らないではいられない。
8月6日と9日。これらの日、わたしがこの10年余にわたってしてきたことを
はなはだ恥ずかしながらお示しし、それをもってせめてもの慰霊とし
またわずかに非戦の思いを自分のなかで確かめたく思います。
これらの日の朝、忘れることなく口で誦ずる幾篇かの詩があります。
まずは、原民喜の「永遠(とわ)のみどり」。


  ヒロシマのデルタに/若葉うづまけ/死と焔(ほのお)の記憶に/
  よき祈りよ こもれ/とはのみどりを/とはのみどりを/
  ヒロシマのデルタに/青葉したたれ

つづいては、「原民喜全集」(芳賀書房刊、全2巻)第一巻を引っ張りだし、
水ヲ下サイ」「燃エガラ」「焼ケタ樹木ハ」などを自己流で朗読する。
40歳のときに被爆、そのことを詩と小説とエッセイにたくさん書き残して
46歳のとき、東京の吉祥寺・西荻窪間の鉄路に身を横たえ自殺した人。
原民喜の詩のあとは、おなじ原爆詩人の峠三吉の「原爆詩集」からの数篇。
特にその序「ちちをかえせ ははをかえせ」を誦ずることになる。



  ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/
  わたしをかえせ わたしにつながる/にんげんをかえせ/
  にんげんの にんげんの世のあるかぎり/
  くずれぬ平和を/平和をかえせ



広島の平和記念館の北側、原爆慰霊碑を見通せるところにこの詩碑がある。
去る年の平和祈念式典の、秋葉元市長の「平和宣言」につづく
子どもたちによる「平和のちかい」で小学生の男の子が、
青空のように澄みわたる声でこの詩を朗読、大泣きさせられた記憶も新しい。
さらにこの詩集から「仮繃帯所にて」「としとったお母さん」「ちいさい子
墓標」「その日はいつか」など、手当たりしだいに読んでいく。
そしてまた、こんなとき決して忘れることのできない詩がある。
与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」である。


  あゝをとうとよ、君を泣く、/君死にたまふことなかれ/
  末に生まれし君なれば/親のなさけはまさりしも/
  親は刃(やいば)をにぎらせて/人を殺せとおしへしや/
  人を殺して死ねよとて/二十四までをそだてしや。/(以下略)

気分によってはこれらのほか、茨木のり子大塚楠緒子新川和恵といった
女流詩人の詩も。なかでも茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」の、
無垢なこころを乱暴に駈け抜けていった戦争のすがたは胸にこたえる。
わが身の非力を羞じつつ、詩人の純な思いをこころに満たしつつ、
非戦の思いを新たにし、魂かぎり核廃絶、戦争のない世界への願いを祈る。
そんな真夏の日々。

  


Posted by 〔がの〕さん at 09:46Comments(0)詩、短歌

2011年12月05日

P/宮澤賢治、夏目漱石、中原中也の輝き

宮澤賢治、夏目漱石、中原中也の輝き

  >唐突な質問ですみませんが、夏目漱石の「二百十日」と宮沢賢治の「注文の多い料理店」は、何だか似ているように感じるのですが、どちらかが、影響を受けているとか、その時代の特徴的な作風とか、なのでしょうか? ご存じだったら教えてください。〔MKN〕


紫  苑


  ははあ~、「草枕」とともに、MKNさんのお住まいの熊本を舞台にする漱石の作品ですね。細かなことはすっかり忘れてしまいましたが、「二百十日」は7~8年前に川崎市のほうでやっていた読書会で読み合った作品です。「草枕」とはだいぶ趣きが違い、ふたりの男のヤジキタ漫才といったタッチで書かれた、軽妙洒脱な会話体の短篇作品でしたね。温泉宿に来たふたり、浴衣すがたのまま阿蘇山に登りますが、噴煙に巻き込まれ、二百十日の雨と風にあって道に迷い、胸まである草のなかをさまよううち穽(あな)に落ちてさんざんな目にあうというはなし。そちら熊本では愛されてよく読まれている作品ですか。
  「注文の多い料理店」との影響関係ということでは、わたしはこれまで考えたこともないのですが、もしあったとすれば、先ほど年表を見たところによりますと、「二百十日」のほうは1906年の発表、「注文の多い料理店」は1924年に1,000部を自費出版したとありましたから、あとの宮澤賢治が影響を受けたことになりますね。たしかに、漱石はすでに人気作家、新聞小説としてどんどん作品を出していた時期ですから、賢治もそれを読んでいた可能性は十分に考えられます。しかし、どうでしょうかねぇ、「二百十日」には江戸の草双紙のような軽さがあり、金持ちや華族たちが跋扈する世の中に対する庶民的な悲憤慷慨はありますが、それは酔っ払いの愚痴というに近く、温泉につかりながらの無責任なヨタばなしのような味があって、社会批評というには浅いように思いますけど。
  一方の「注文の多い料理店」には、自然を軽視する人間の傲慢不遜さをふたりの青年紳士、イギリス風に洗練されていることをハナにかける都会人種に対する明確な批判があるように思いますね。かなり意識的な社会批判を感じます。どちらが優れた作品か、そこには違った評価の軸があるでしょうけれど。


継子の尻ぬぐい


  宮澤賢治と夏目漱石との影響関係については、後日、改めてもうちょっと丁寧に探ってみるとして、じつは、先日、神奈川県立近代文学館の「中原中也富永太郎展――ふたつのいのちの火花」を見てきました。きのうの狂ったような荒天とはうってかわって、気温21℃、横浜の海からの心地よい風を浴び、バラ園の香りに包まれて、遠い青春の日の甘酸っぱい記憶に浸ってすごした半日。
  この展示を見て、アッそうか、と膝をたたいたのは、中原中也の詩のいくつかに宮澤賢治のイメージが乗っている、ということ。あまり知られていないのですが、「修羅街挽歌」という中也の詩を見て、あ、「春と修羅」を読んでいるな、とピーンとくるものがありました。

    暁は、紫の色/明け初めて/わが友等みな/我を去るや
    否よ否よ、/暁は、紫の色に/明け初めて
    我が友等みな/一堂に会するべしな。
    弱き身の/強がりや怯え、おぞまし/
    弱き身の、弱き心の強がりは、/猶おぞましけれど
    恕(ゆる)せかし/弱き身の/さるにても
    心なよらか/弱き身の、心なよらか
    拆(さ)るることなし。
 

  この早熟な天才は、“ダダイスト”をみずからに認じ、火のように烈しい偏執で自己主張するものですから、周囲には、ちょっとつきあいきれないハナモチならぬやつ、というものがあって敬遠され、一人去り二人去り、友人に見放されて孤独をかこつ時期がありました。人の話には耳を傾けない傍若無人ぶり、自己撞着ぶりだったようようですね。自業自得か、孤独の痛みにさいなまれていたときに書かれた詩篇がこれです。“修羅”という印象あざやかな語の発想は賢治か萩原朔太郎のもの。書かれている内容においてはあまり通じるものがあるとは思えないのですが、まず「春と修羅」と無関係とは考えにくい。
  このほかにも、影響といえそうなものに、「星とピエロ」という詩稿があるし、中也にはめずらしい童話作品「夜汽車の食堂」という草稿、これなどはどうみても「銀河鉄道の夜」を知らずに書いたとは思えませんね。

    「雪の野原の中で、一條のレールがあって、そのレールの
    ずっと地平線に見えなくなるあたりの空に、大きなお月様が
    ポッカリ出てゐました」


  中原中也はどこで宮澤賢治を知ったか? もちろん直接会ってはいません。会ったとしても、賢治と親しい関係がつくられるとは考えにくい個性同士。つまり、「春と修羅」を中原中也に紹介したのは、富永太郎のほかにはいないでしょう。24歳の若さで惜しまれて夭逝した、中也より6歳年上の詩人であり画家、新鮮で硬質な象徴詩を書いた天才でした。ヴェルレーヌ、ボードレール、ランボーらのフランス近代詩を紹介して、中原中也をダダイズムの狂信のわだちから抜け出させたほか、世界の新しい詩の世界を切り開いて見せ、中也を独自の抒情詩の世界へ引き出した人物。その「新しい詩」のひとつに「春と修羅」があったことはほぼ間違いない。
  中也は17歳、すでに長谷川泰子と同棲しているときのふたりの天才詩人の出会い。それは、はげしく嫌悪し、反発しあいつつも、互いの才能を認めあわずにいない、不思議な友情でつながっていました。

  あ、ここは似ている、ここはこちらをまねている、盗用しているなどと詮索するのは好きではないですが、知性と知性、感性と感性が本質的なところでふれあえば、熱い火花がほとばしり、どうしたって影響関係は生じずにはいないでしょうね。それでなくてさえ、たとえば日本神話とギリシア神話に共通するものがいくらでもあることにみるように、時間や空間をはるか隔てても人間存在の本源には太くつながっているものがあり、絵画も音楽も文学もあらゆる芸術が古来よりそこをひたすら表現してきたのだ、とはいえないでしょうか。時代を超え世紀を超えて残っていく傑作、人類の宝には、いつの場合も共通して、人間とは何か、存在の意味は何か、の問いと追求がありますね。


  >「二百十日」は大学の「新熊本学」という教科で取り上げられて読んだものでしたが、「弥次喜多道中」を彷彿とさせるというご指摘ももっともですね。私は、阿蘇の草原で迷子になったあたりが、山中で迷子になる「注文の多い…」の二人に似ているような気がしたのですが。〔MKN〕

  はい、MKNさんが似ていないだろうか、と見たのはそこだろうとは思っていました。阿蘇の草千里。九州でのキャンプで産山や湯坪に行ったことがあります。背丈ほどもある草の原を漕ぐようにして右往左往する感覚を経験したことはありませんけれど、方向感覚も失って迷い歩き、疲れはてたすえに、ふと目の前に見たのが、宮澤賢治の描く途方もないレストランだったり、「雨月物語」の浅茅ケ宿だったり、昔ばなしの「すずめのお宿」だったり…。そうした幻想と人間の根源的な不安を高等落語のように語ってみせる漱石って、やはりタダモノじゃないですね。
  


Posted by 〔がの〕さん at 12:12Comments(2)詩、短歌

2010年11月16日

P/挽歌、そして宮澤賢治

 たとえば、広く文藝世界を見回して、心に深く刻まれて片時も忘れることのできない「挽歌」を三つ挙げよといわれたら、あなたなら、どんな作品を挙げますか? ガーンと打ちのめされて呆然自失させられるような作。
 わたしの場合、そのひとつは斎藤茂吉の「赤光」にある一首、

   のど赤き玄鳥(つばくろめ)ふたつ屋梁(はり)にいて
       たらちねの母は死にたまふなり
 

 つぎには与謝野晶子が夫鉄幹を喪ったときに書いたいくつかの歌(白桜記)、たとえば、そのうちのひとつ、

   みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
       もうけふおまへはわかれてしまふ


 そして第一には宮澤賢治の「永訣の朝」「無声慟哭」、もうひとつ「青森挽歌」でしょう。

  けふのうちに
  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゆとてちてけんじや) …
 

 東京ことばで書かれた地の文(賢治のことば)に、妹トシのことばとして花巻弁が差し込まれ、ふしぎな諧調をつくる詩文ですね。ほとんど平仮名で書かれ、「っ」「ゃ」といった撥音も使わぬ、雪の夜のような静謐な調子。とりわけわたしがまいってしまうのは、最後に近い部分なんですけどね。

  この雪はどこをえらぼうにも
  あんまりどこもまつしろなのだ
  そんなおそろしいみぞれたそらから
  このうつくしい雪がきたのだ
    (うまれてくるたて
     こんどはこたにわりやのことばかりで
     くるしまなあよにうまれてくる)
  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
  わたくしはいま こころからいのる …略…
  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ…
 (永訣の朝)

 トシが死の床でいうことば、今度生まれてくるときには、自分のことばかりでなく、ひとさまのためになるような生き方をしたい、という願い、というよりは、祈りは、母親のイチさんがいつも賢治の耳もとでいっていたことばですよね。「人というのは、ひとのためになるように生まれてきたのッす」。自分の利得、自分の欲望ばかりしか考えないで破廉恥な欺瞞を犯すこのごろのケータイ短絡型人間に、イチさんのこのことば、トシのこのことばの一部でもわかってもらえたらなあ、と思いますね。せめてこれからの社会をになう人びとには、賢治のこの澄み切ったこころを大事な糧にしてもらいたいと、「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」次第ですが。
 それにしても、人間の「絆」って何だろう、すごいなあ、と思います。一人の人間の思想形成、人間形成にとって、「絆」とは…。

 さらに宮澤賢治とともに涙をしぼってもらいましょうか、「無声慟哭」から抜粋して…。

  こんなにもみんなにみまもられながら
  おまへはまだここでくるしまなければならないのか
  ……おまへはじぶんにさだめられたみちを
  ひとりさびしく往かうとするか


 宮澤賢治は第一級の「りっぱな」詩人か、「うまい」詩人か、というと、わたしは必ずしもそうは思わないところがあります。しかし、「永訣の朝」「無声慟哭」…、「雨ニモマケズ」も含め、こういう賢治の詩は、わたしごとき凡愚なものの、いささかの蛇足も必要としない真情にあふれていますよね。
 かつての日、わたしはこれらの詩句を嗚咽しながらなんべんも口にし、自分の手で一字一字、原稿に書き写しつつ、何度涙したことだろう、何枚の原稿用紙を涙にぬらしたことだろう。わたしには妹はなく、その実感には薄いものがあるのかも知れないけれど、わたしは、その涙にこれ以上ないほどの清らかさを感じ、ことばを超える詩的宇宙のなかに誘いこまれる美しい時間をこころいっぱいに楽しみました。

  鳥のやうに栗鼠のやうに
  おまへは林をしたつてゐた
  どんなにわたくしがうらやましかつたらう
  ああ けふのうちにとおくへさらうとするいもうとよ
  ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
  わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
  泣いてわたくしにさう言つてくれ  
(「松の針」より)

 死に瀕する妹に、林から松の一枝を採ってきて与える兄の思い。格別な巧妙さがあるわけでもない、過剰なもの、飾ったもののひとかけらもない詩。でも、修羅を誠実に生きた賢治という人の玲瓏な心象は、清浄な気でわたしのこころを満たしてくれます。「詩」なんて呼ばなくてもいい、ことばの世界、こころの世界がここにはありますのでね。

*…詩についてもっと、宮澤賢治とその妹のことをもっと書いてくれ、との声がいくつか私信に寄せられました。上記の一文は、わたしの別のホームページ(〔がの〕さんの閑粒子日記)に2年ほど前に書いたものの再録です(一部修正)。




  


Posted by 〔がの〕さん at 22:13Comments(4)詩、短歌