2016年03月08日
E/「めんどくさい」からの脱出
「めんどくさい」からの脱出
――壊れたこころを癒し、生きる力を再開発する
去る秋のある日、青少年指導員の研修の一環で、市の主催する講演会に地区を代表して行ってきたことがありました。
講師は、某医科大学の講師であり泌尿器科の医師で、テーマは「思春期の心と性」。女子中学生・高校生の性に対する無知、命の意味など、「めんどくさい」(めんどい)で一切の思考を停めてしまう若もの、考えることを拒否する若もののすがたにふれ、驚愕させられました。自殺を含む自傷者の多さ、いじめ、児童虐待の多いという事実にも驚かされますが。
「めんどくさい」として無関心な態度を決め込むのは、子どもたちに限ったことではありませんね。わたしたちの周囲にはびこり病気のように広がっていると、時折感じます。他者の経験から謙虚に、真摯に学ぼうとする努力を喪ったすがた。どうでしょうか、身に覚えはありませんか?

「めんどくさい」とは別に、このごろ、学校の給食で「いただきます」「ごちそうさま」を言わない子もいるとか。まさか! とお思いでしょが、事実、学校ではけっこうそういう子がいるのだそうです。どうして言わないのか。給食費をちゃんと自分の親が払っているのだから、言う意味がわからない、という。だれに感謝して「ごちそうさま」をいうのか、と。なるほど、そういう理屈もあるのか、と驚かされますが、学校給食で「ごちそうさま」を言わない「合理性」とは、どういうもんでしょうかね。親の過保護によってのみ生かされている、まわりの見えない、もうひとつ向こうが見えない存在。
子どもたちは、過剰なほどにいろいろな人の愛に包まれていながら、その「愛」はどこか偏端なもので、本質的には深くつながっていない、ということ。「愛」の反対概念は何か? 愛憎の「憎」と応える人が多いと思いますが、それはこのごろは違うらしい。「無関心」だそうです。こころを踊らせることを知らない、冷めて、考えることを放棄した生き方ですね。想像力の欠如と言えるのではないかとわたしは思うのですが。

わたしはどうもケータイやスマホが苦手で、ふだんほとんど使うことはないのですが、ちょっと問題があって面倒をみている女子中学生がいて、何か緊急なことがあったら連絡するように、とメールアドレスを教えました。電源はいつも切っているか、マナーモードにしてあります。その日、文化講座で人の前で話をすることがあって、2時間ほどケータイを手放しました。終わって、ふと見れば、そのあいだに、その子から十数通ものメールが入っていました。内容はみなほぼ同じ、どれも他愛もないことでした。いまどきの中学生はメールを送って、内容はともかく、返事がくるのを5分と待てないみたいですね。「おじさんはなあ、仕事中なんだよ」と返事してやれば、「あ、そうか」。相手のことを想像することもできないこんな調子ですから、子どもどうしのあいだでは返事が遅れただけで友情は簡単に壊れる、人間関係がケータイで壊される、いや、すぐに壊れてしまうような希薄な関係性しか持っていないのがいまどきの若もの像なのでしょうか。
人と人との関係のなかで自分のプライドが保てない、自分のこだわりが理解されることなく解消できない――それが生むストレス。しかし、そこをぐっと耐えるのが人間を育てる場であることを、わたしたち大人はコミュニティのかかわりのなかで伝えていかねばならないように思います。

例は適当ではないかも知れませんが、たとえば、なぜわたしは万引きをしないんでしょうか。なぜ痴漢をしないんでしょうか。なぜ他人のお金を横領しないんでしょうか。なぜ人をいじめたり殺したりしないんでしょうか。たぶん、これからもそういうことはしないだろうと思います。清廉潔癖な聖人君子だから? 円満具足の幸せものだから? いやいや、とんでもありません。小心で意気地がないだけかもしれませんが、良識とまでは言わないまでも、それなりに自分のストレスをマネージメントする能力が備わっているからであり、想像力を備えているからにほかなりませんね。衝動に駆られてそれをやってしまったら、おてんとさまに恥ずかしい、一家一族は世間に顔向けできなくなるだろうし、それまでいい関係にあった知人・友人との信頼を裏切ることにもなる。そう思って自制することを「理性」というのかも知れませんが、それこそが想像力でありコミュニケーション力。煎じつめて言うなら、わたしのこころがまだそんなに病んでいないからですね。(身体的には加齢とともにボロボロですが)

人と人とのあいだで存在するのが人間。ところが、氾濫する情報のなかで自分が見つけられず、他者との関係性を喪って孤立を深める若い世代。いろいろな違った関係、多様なつながり方のなかで子どもが自分を見つけ、社会力を体得していくスタイルは、多く地域でつくられていくと思っています。
他とのかかわりの少ない、ほんとうのつながりを持たない若ものに、どうやってコミュニケーション能力を育てるか。心地よいコミュニケーションの取り組みとしてその日の講師が挙げていたのは、(えらいね、と)褒めてあげること、(ありがとう、と)感謝してあげること、(いいんだよ、と)認めてあげること。犯してしまった反社会的な行為について、いっしょに受け止めながら、これからの生き方を探ること。情報がいくらあっても、教育がいくらあっても、それは生きた知識とはならず、生きた知識とコミュニケーション能力が合わさって“LIFE SKILL”生きる力になっていくという論理。
こころに病いを持たない(と思う)わたしたちが、身を低くしてもっともっと地域の子どもたちにふれることが求められているように思いました。
――壊れたこころを癒し、生きる力を再開発する
去る秋のある日、青少年指導員の研修の一環で、市の主催する講演会に地区を代表して行ってきたことがありました。
講師は、某医科大学の講師であり泌尿器科の医師で、テーマは「思春期の心と性」。女子中学生・高校生の性に対する無知、命の意味など、「めんどくさい」(めんどい)で一切の思考を停めてしまう若もの、考えることを拒否する若もののすがたにふれ、驚愕させられました。自殺を含む自傷者の多さ、いじめ、児童虐待の多いという事実にも驚かされますが。
「めんどくさい」として無関心な態度を決め込むのは、子どもたちに限ったことではありませんね。わたしたちの周囲にはびこり病気のように広がっていると、時折感じます。他者の経験から謙虚に、真摯に学ぼうとする努力を喪ったすがた。どうでしょうか、身に覚えはありませんか?
「めんどくさい」とは別に、このごろ、学校の給食で「いただきます」「ごちそうさま」を言わない子もいるとか。まさか! とお思いでしょが、事実、学校ではけっこうそういう子がいるのだそうです。どうして言わないのか。給食費をちゃんと自分の親が払っているのだから、言う意味がわからない、という。だれに感謝して「ごちそうさま」をいうのか、と。なるほど、そういう理屈もあるのか、と驚かされますが、学校給食で「ごちそうさま」を言わない「合理性」とは、どういうもんでしょうかね。親の過保護によってのみ生かされている、まわりの見えない、もうひとつ向こうが見えない存在。
子どもたちは、過剰なほどにいろいろな人の愛に包まれていながら、その「愛」はどこか偏端なもので、本質的には深くつながっていない、ということ。「愛」の反対概念は何か? 愛憎の「憎」と応える人が多いと思いますが、それはこのごろは違うらしい。「無関心」だそうです。こころを踊らせることを知らない、冷めて、考えることを放棄した生き方ですね。想像力の欠如と言えるのではないかとわたしは思うのですが。

わたしはどうもケータイやスマホが苦手で、ふだんほとんど使うことはないのですが、ちょっと問題があって面倒をみている女子中学生がいて、何か緊急なことがあったら連絡するように、とメールアドレスを教えました。電源はいつも切っているか、マナーモードにしてあります。その日、文化講座で人の前で話をすることがあって、2時間ほどケータイを手放しました。終わって、ふと見れば、そのあいだに、その子から十数通ものメールが入っていました。内容はみなほぼ同じ、どれも他愛もないことでした。いまどきの中学生はメールを送って、内容はともかく、返事がくるのを5分と待てないみたいですね。「おじさんはなあ、仕事中なんだよ」と返事してやれば、「あ、そうか」。相手のことを想像することもできないこんな調子ですから、子どもどうしのあいだでは返事が遅れただけで友情は簡単に壊れる、人間関係がケータイで壊される、いや、すぐに壊れてしまうような希薄な関係性しか持っていないのがいまどきの若もの像なのでしょうか。
人と人との関係のなかで自分のプライドが保てない、自分のこだわりが理解されることなく解消できない――それが生むストレス。しかし、そこをぐっと耐えるのが人間を育てる場であることを、わたしたち大人はコミュニティのかかわりのなかで伝えていかねばならないように思います。

例は適当ではないかも知れませんが、たとえば、なぜわたしは万引きをしないんでしょうか。なぜ痴漢をしないんでしょうか。なぜ他人のお金を横領しないんでしょうか。なぜ人をいじめたり殺したりしないんでしょうか。たぶん、これからもそういうことはしないだろうと思います。清廉潔癖な聖人君子だから? 円満具足の幸せものだから? いやいや、とんでもありません。小心で意気地がないだけかもしれませんが、良識とまでは言わないまでも、それなりに自分のストレスをマネージメントする能力が備わっているからであり、想像力を備えているからにほかなりませんね。衝動に駆られてそれをやってしまったら、おてんとさまに恥ずかしい、一家一族は世間に顔向けできなくなるだろうし、それまでいい関係にあった知人・友人との信頼を裏切ることにもなる。そう思って自制することを「理性」というのかも知れませんが、それこそが想像力でありコミュニケーション力。煎じつめて言うなら、わたしのこころがまだそんなに病んでいないからですね。(身体的には加齢とともにボロボロですが)

人と人とのあいだで存在するのが人間。ところが、氾濫する情報のなかで自分が見つけられず、他者との関係性を喪って孤立を深める若い世代。いろいろな違った関係、多様なつながり方のなかで子どもが自分を見つけ、社会力を体得していくスタイルは、多く地域でつくられていくと思っています。
他とのかかわりの少ない、ほんとうのつながりを持たない若ものに、どうやってコミュニケーション能力を育てるか。心地よいコミュニケーションの取り組みとしてその日の講師が挙げていたのは、(えらいね、と)褒めてあげること、(ありがとう、と)感謝してあげること、(いいんだよ、と)認めてあげること。犯してしまった反社会的な行為について、いっしょに受け止めながら、これからの生き方を探ること。情報がいくらあっても、教育がいくらあっても、それは生きた知識とはならず、生きた知識とコミュニケーション能力が合わさって“LIFE SKILL”生きる力になっていくという論理。
こころに病いを持たない(と思う)わたしたちが、身を低くしてもっともっと地域の子どもたちにふれることが求められているように思いました。
Posted by 〔がの〕さん at 12:20│Comments(2)
│社会教育
この記事へのコメント
素晴らしいですネ。多くの若者に読んでいただきたいです。
人間は一人では生きることができません。(๑╹ڡ╹)╭ ~ ♡
「愛」の反対語は「無視」なるほど、何事も感心を持ってチャレンジし、人との
人のつながり、絆を自ら作る、作れない若者に地域がサポートすることは
我々大人の役割でしょうか。
人間は一人では生きることができません。(๑╹ڡ╹)╭ ~ ♡
「愛」の反対語は「無視」なるほど、何事も感心を持ってチャレンジし、人との
人のつながり、絆を自ら作る、作れない若者に地域がサポートすることは
我々大人の役割でしょうか。
Posted by 2人3脚
at 2016年03月09日 07:53

石田さま/18歳、19歳にも選挙権が与えられました。よかった、いや、当然なことだよ、と思う一方、どうなんだろうか、そんなざまでその資格があるのかよ、といぶかしいものも残ります。
「産むが安し」で、そんなのは杞憂で、彼らの行動が、この不公平、不条理な社会にあって、意外な福音になるのかも知れませんけれど。自分の気持ちや意見をまっすぐ表現できる意識的な層も生まれてきていますし。
若い人たちを教育する力など、もともとありませんし、そんな立場にもないですが、彼らに円満な感性と知性を身に着けてもらうためには、上から目線で教えたり規制したりするのではなく、ボランティアでもいい、スポーツでもいい、日常的にいっしょに何かに当たる、共有する、協働することが大事じゃないかと思います。そんなに容易なことで゜はないですが、一つずつ、一歩ずつ。だって、昔はみんな、そうやって社会力をつけてきたんですから。
「産むが安し」で、そんなのは杞憂で、彼らの行動が、この不公平、不条理な社会にあって、意外な福音になるのかも知れませんけれど。自分の気持ちや意見をまっすぐ表現できる意識的な層も生まれてきていますし。
若い人たちを教育する力など、もともとありませんし、そんな立場にもないですが、彼らに円満な感性と知性を身に着けてもらうためには、上から目線で教えたり規制したりするのではなく、ボランティアでもいい、スポーツでもいい、日常的にいっしょに何かに当たる、共有する、協働することが大事じゃないかと思います。そんなに容易なことで゜はないですが、一つずつ、一歩ずつ。だって、昔はみんな、そうやって社会力をつけてきたんですから。
Posted by 〔がの〕さん
at 2016年03月10日 18:25
