2025年03月21日
JC/遠藤周作「深い河」
深い河 遠藤周作

◆転生した妻を求めて
ひとは死んで再び何かに生まれ変わるという宗教感覚。遥か遠い時代、エジプトやメソポタミヤの文明とともにあったそういう考え方は、人間の切実な願望、死への怖れ、死者を悼むこころ、喪失感からの解放などから生まれた、ごく自然な観念だったのだろうか。
が、それは意外にすばらしい癒しの思想でもある。夫婦が死のまぎわに、気やすめに「生まれかわったらまたいっしょになろう」と言い合う俗っぽさ、また心中物語などの常套句で、「この世では添えなかったが、あの世では(生まれ変わったら)いっしょになろう」などといった種の安っぽい感傷も、もしかするとたいへん崇高な思想なのかも知れない。

キリスト教文学の金字塔とされる名作『沈黙』でよく知られる遠藤周作。絶妙なシャレや冗談が好きで、“狐狸庵”先生として広く親しまれた一面もある作家。この作家は1996年に亡くなっているが、その晩年、最後に書き残したのがこの『深い河』。死のまぎわに書き落したもので、作者のここに注ぐ思いには格別に深いものがある。
すでに企業戦士としての第一線を退き、年金生活をしている磯部。癌で妻を失う。とりたててすぐれたところがあるわけでもない、ごくふつうの、慎ましく謙虚にして堅実な女。美しいわけでもない、教養があるわけでもない、旧世代の典型的な、邪魔にならないよき女。その妻が死の床で「わたしが死んだら、必ずどこかで生まれ変わるから、ぜったいに探してね」ということばを残す。その場かぎりの甘えた戯れごと、世迷いごととしてその場では聞き流していたが、そのことばがのちのちまで磯部のこころの奥に滓(おり)のようにしてずう~っと残る。
転生したはずの妻を求めて、アメリカの大学に問い合わせ、世界の生まれ変わりの事例を照会してもらう。インドのヴァーラーナスィ(ベナレス)にそれらしい子どもがいるとの照会を得て、磯部はインドへのツアーに参加する。さまざまな事情、さまざまな人生を抱えた人たちとともに、ヒンドゥー教の世界、死霊の世界、死のためにそこに集まって来ている人びとの周辺を見て歩くことになる。ガンジス川とガート(川に降りるための石段)のまわりに広がる壮大な死の風景をまざまざと。生活のために交わってきた他人は無数にいるが、人生のなかで本当にふれあったのは、生涯に二人、母と妻しかいないことに思いいたる。亡き妻を求めてこうしてこのような地を放浪する磯部の旅は、あまりにも空しく悲しい。
◆インドの聖母との出会い
そこで目にしたのは、チャームンダーという女神像。うす暗く、むせ返るような熱さの充満した洞窟のなかで見た石の像。その乳房は老婆のもののように萎えて垂れ、いささかのふくらみすらもない。右足を見ると、ハンセン病(らい病)のため半分ほどえぐられ、爛れている。餓えのために肋骨が浮き出て、腹は背中にくっつくほどにへこんでいる。しかも、その腹のうえにはサソリが噛みついている。女神はそうした病苦、苦痛に耐えながら、乳は出るのか出ないのか、萎びきった乳房をたくさんの子どもたちの口に含ませている――かつてインドの人びとが背負っていた苦悶を一手に抱え込んでいる女神。それはキリスト教の聖母マリアの清らかさ、優雅さ、端麗さとは、比べるのも虚しいほど、あまりにも遠く離れたイメージだ。見ていると気分が悪くなるほど、醜く老い果て、苦しみ喘ぎ、それでもヤケをおこして自暴自棄になることもなく、周囲の目など気にするふうもない。ただ耐えている。これがインドの母、インドの聖母なのだと女神像は無言のうちに語っている。
遠藤周作が自身の生の最後のときにこのすさまじい女神に出会い、そのイメージをこころに抱いて73歳の生を閉じていったことが、はたして幸せだったか、救いになったかどうかは、わからない。死というものをいっそう暗い、救いのない苦しいものにしたか知れないし、あるいは彼のなかの無明の迷いを、この女神が掬いとってくれて、安心立命のうちに天国へ渡って行ったかも知れない。
◆インドの懐ろの深さ
磯部とともに、作中で鮮烈な印象をつくっているのは、大津という人物。ここに遠藤の思想のなかのイエス・キリスト像があり、遠藤自身を彷彿とさせものがある。「彼は醜く、威厳もない。みじめでみすぼらしい。人は彼を蔑み、見捨てた……人に侮られ…たが、彼は我われの病いを負い、我われの悲しみを担った」。日本社会で捨てられ、魂の闇にもがき苦しみ、神父にもなりきれず、各地を放浪。イスラエルのガリラヤ湖畔の修道院でも、フランスのリヨンの修道院でも、みんなに疎まれ、挙句にはヒンドゥー教徒たちの集う不潔なアシュラム(道場)で拾われる。そこで、行き倒れた死者たちを見つけては聖なる河・ガンジスに葬ることに生きる。そして日本から来た軽薄なお調子者のカメラマンをかばったことで、暴徒と化したシーク教徒に殴り殺される。「ぼくは、これでいいんだ、これで」ということばを残して。死体運びの卑しい男として、だれにも知られることなく死んでいく男。
さらに、インド哲学を修めながら、ろくな職業にも就けず、いまは観光客の添乗員をしながらインドのすがたを見つめつづけている江波という男にも、なんともいいがたい侘しさがある。いまは違うが、かつてのインドは、臭い、汚いなどといって馴染もうとせず、勝手なことを言っては困らせるこの飽食時代の、程度の低いツアー客を相手に、ときには腹を立てることもあるが、それでも自分を惹きつけてやまないインドの、深い懐ろのぬくみと、そこに生きる人びとのこころの世界を、一人でも多くの人に伝えようと身を粉にするその真率さ、そのすがすがしいすがたに、尽きぬ感動をおぼえる。


◆転生した妻を求めて
ひとは死んで再び何かに生まれ変わるという宗教感覚。遥か遠い時代、エジプトやメソポタミヤの文明とともにあったそういう考え方は、人間の切実な願望、死への怖れ、死者を悼むこころ、喪失感からの解放などから生まれた、ごく自然な観念だったのだろうか。
が、それは意外にすばらしい癒しの思想でもある。夫婦が死のまぎわに、気やすめに「生まれかわったらまたいっしょになろう」と言い合う俗っぽさ、また心中物語などの常套句で、「この世では添えなかったが、あの世では(生まれ変わったら)いっしょになろう」などといった種の安っぽい感傷も、もしかするとたいへん崇高な思想なのかも知れない。

キリスト教文学の金字塔とされる名作『沈黙』でよく知られる遠藤周作。絶妙なシャレや冗談が好きで、“狐狸庵”先生として広く親しまれた一面もある作家。この作家は1996年に亡くなっているが、その晩年、最後に書き残したのがこの『深い河』。死のまぎわに書き落したもので、作者のここに注ぐ思いには格別に深いものがある。
すでに企業戦士としての第一線を退き、年金生活をしている磯部。癌で妻を失う。とりたててすぐれたところがあるわけでもない、ごくふつうの、慎ましく謙虚にして堅実な女。美しいわけでもない、教養があるわけでもない、旧世代の典型的な、邪魔にならないよき女。その妻が死の床で「わたしが死んだら、必ずどこかで生まれ変わるから、ぜったいに探してね」ということばを残す。その場かぎりの甘えた戯れごと、世迷いごととしてその場では聞き流していたが、そのことばがのちのちまで磯部のこころの奥に滓(おり)のようにしてずう~っと残る。
転生したはずの妻を求めて、アメリカの大学に問い合わせ、世界の生まれ変わりの事例を照会してもらう。インドのヴァーラーナスィ(ベナレス)にそれらしい子どもがいるとの照会を得て、磯部はインドへのツアーに参加する。さまざまな事情、さまざまな人生を抱えた人たちとともに、ヒンドゥー教の世界、死霊の世界、死のためにそこに集まって来ている人びとの周辺を見て歩くことになる。ガンジス川とガート(川に降りるための石段)のまわりに広がる壮大な死の風景をまざまざと。生活のために交わってきた他人は無数にいるが、人生のなかで本当にふれあったのは、生涯に二人、母と妻しかいないことに思いいたる。亡き妻を求めてこうしてこのような地を放浪する磯部の旅は、あまりにも空しく悲しい。
◆インドの聖母との出会い
そこで目にしたのは、チャームンダーという女神像。うす暗く、むせ返るような熱さの充満した洞窟のなかで見た石の像。その乳房は老婆のもののように萎えて垂れ、いささかのふくらみすらもない。右足を見ると、ハンセン病(らい病)のため半分ほどえぐられ、爛れている。餓えのために肋骨が浮き出て、腹は背中にくっつくほどにへこんでいる。しかも、その腹のうえにはサソリが噛みついている。女神はそうした病苦、苦痛に耐えながら、乳は出るのか出ないのか、萎びきった乳房をたくさんの子どもたちの口に含ませている――かつてインドの人びとが背負っていた苦悶を一手に抱え込んでいる女神。それはキリスト教の聖母マリアの清らかさ、優雅さ、端麗さとは、比べるのも虚しいほど、あまりにも遠く離れたイメージだ。見ていると気分が悪くなるほど、醜く老い果て、苦しみ喘ぎ、それでもヤケをおこして自暴自棄になることもなく、周囲の目など気にするふうもない。ただ耐えている。これがインドの母、インドの聖母なのだと女神像は無言のうちに語っている。
遠藤周作が自身の生の最後のときにこのすさまじい女神に出会い、そのイメージをこころに抱いて73歳の生を閉じていったことが、はたして幸せだったか、救いになったかどうかは、わからない。死というものをいっそう暗い、救いのない苦しいものにしたか知れないし、あるいは彼のなかの無明の迷いを、この女神が掬いとってくれて、安心立命のうちに天国へ渡って行ったかも知れない。
◆インドの懐ろの深さ
磯部とともに、作中で鮮烈な印象をつくっているのは、大津という人物。ここに遠藤の思想のなかのイエス・キリスト像があり、遠藤自身を彷彿とさせものがある。「彼は醜く、威厳もない。みじめでみすぼらしい。人は彼を蔑み、見捨てた……人に侮られ…たが、彼は我われの病いを負い、我われの悲しみを担った」。日本社会で捨てられ、魂の闇にもがき苦しみ、神父にもなりきれず、各地を放浪。イスラエルのガリラヤ湖畔の修道院でも、フランスのリヨンの修道院でも、みんなに疎まれ、挙句にはヒンドゥー教徒たちの集う不潔なアシュラム(道場)で拾われる。そこで、行き倒れた死者たちを見つけては聖なる河・ガンジスに葬ることに生きる。そして日本から来た軽薄なお調子者のカメラマンをかばったことで、暴徒と化したシーク教徒に殴り殺される。「ぼくは、これでいいんだ、これで」ということばを残して。死体運びの卑しい男として、だれにも知られることなく死んでいく男。
さらに、インド哲学を修めながら、ろくな職業にも就けず、いまは観光客の添乗員をしながらインドのすがたを見つめつづけている江波という男にも、なんともいいがたい侘しさがある。いまは違うが、かつてのインドは、臭い、汚いなどといって馴染もうとせず、勝手なことを言っては困らせるこの飽食時代の、程度の低いツアー客を相手に、ときには腹を立てることもあるが、それでも自分を惹きつけてやまないインドの、深い懐ろのぬくみと、そこに生きる人びとのこころの世界を、一人でも多くの人に伝えようと身を粉にするその真率さ、そのすがすがしいすがたに、尽きぬ感動をおぼえる。

2025年01月23日
F/スタインベック「二十日ネズミと人間」
>スタインベック「二十日ネズミと人間」

◆失われた世代に失われたものは…
低能ではあるが、ウソや誤魔化しを知らぬ純真無垢な怪力の大男レニー・スモール、この薄バカな男、それと、ともに農場を転々とわたり歩く幼馴染みの農業労働者ジョージ・ミルトンがいる。このふたりを介して、人間の夢を見せてくれる作品。夢には大きいものと小さいものの違いはない。その大男レニーに付き添い、度重なる失敗をジョージがかばい合いながら、下層の貧しいものたちのなかに育まれていくつつましい夢と、苦しい生活に耐えている日雇い農夫の奇妙な、しかし確かな友情が見られる。大男レニーは、なんと二十日ネズミのような小さい命や、女のひとの肌の柔らかいすべすべした感触を好む繊細さももっている。その好みのために心ならずも、小犬や女を殺害してしまうという悲劇が。時間するとわずか3時間のなかの出来事を通じてその世界は展開する。レニーの天衣無縫な無邪気さが救い。
◆夢はそのたび崩れても…
土地に密着しつつ生きる人びとの生活が、写実と象徴的な手法を交えながら描き出される社会的リアリズム。そこにはユーモアがあり哀愁をたたえた滋味がある。農場から農場へ渡り歩く浮浪農民“オーキー”の、いずれは自分の土地を持ちたいとの夢、自由で独立した生活へ寄せる夢の果敢ないすがたに、アメリカ商業主義への強い怒りが込められているが、そうした主観を抑えて、あくまでも抑えの利いた冷静な筆致で表現されていく。夢はいつも崩壊してしまうが、醒めて無に帰しながらもなお夢を見ずにはいられない人間の悲ししいサガ。その無邪気な夢を嘲笑することなく、本気で受け入れる仲間同士がいる。
動物たちが数多く登場するのは、この作家のひとつの特徴。他の作品「赤い小馬」や「怒りの葡萄」「遁走」「蛇」などにも。身近な家畜類だけでなく、マウンテンライオンやハゲタカ、ガラガラへび、山猫なども。それらは単に自然の背景ではなく、人間と深く結びつき、大自然と混然一体になっている。
◆〔その時代と文学状況〕
J.スタインベックは1902~68年を生きたアメリカの代表的な作家。「二十日ネズミと人間」Of Mice and Menは1937年に発表されている。1929年、ニューヨーク市場の大暴落があり大不況の時代はまだ続いている。1933年にその不況打開のためフランクリン・ル-ズベルト大統領によるニューディール政策がとられ、つづいて1939年9月には第二次世界大戦に突入する。先が見えず、人生の意義を疑い、時代に幻滅と喪失を感じ、社会と一般大衆には背を向け、創作によって自我を表現しようすることを目的にした「失われた世代」Lost Generationに。ここに登場したのがアメリカ文学の三人の巨星、フォークナーでありヘミングウェイであり、このスタインベックである。フォークナーの「響きと怒り」「野生の棕櫚」、ヘミングウェイの「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」はそのスタイルを“ハードホイルド”と呼ばれ、アメリカ文学の新しい風をもたらし、とりわけ広く迎えられた。そのほかにも、1930年代の社会的な混乱のなかで、アメリカ資本主義に対する痛烈な批判の書、大作の「USA」を書いたドス・パソスや、南部農民の無知と怠慢を描き、アメリカ社会の患部を衝く「タバコ・ロード」を著わしたコードウェル、「人間喜劇」のサロイヤンなども。スタインベックの「勝算なき戦い」(1936年)、リンゴ採取人のストライキに取材したこの作はつぎの「怒りのぶどう」へとつながって結実、これぞ1930年代アメリカ文学の最大傑作とされ、1962年にノーベル文学賞を受けている。

◆失われた世代に失われたものは…
低能ではあるが、ウソや誤魔化しを知らぬ純真無垢な怪力の大男レニー・スモール、この薄バカな男、それと、ともに農場を転々とわたり歩く幼馴染みの農業労働者ジョージ・ミルトンがいる。このふたりを介して、人間の夢を見せてくれる作品。夢には大きいものと小さいものの違いはない。その大男レニーに付き添い、度重なる失敗をジョージがかばい合いながら、下層の貧しいものたちのなかに育まれていくつつましい夢と、苦しい生活に耐えている日雇い農夫の奇妙な、しかし確かな友情が見られる。大男レニーは、なんと二十日ネズミのような小さい命や、女のひとの肌の柔らかいすべすべした感触を好む繊細さももっている。その好みのために心ならずも、小犬や女を殺害してしまうという悲劇が。時間するとわずか3時間のなかの出来事を通じてその世界は展開する。レニーの天衣無縫な無邪気さが救い。
◆夢はそのたび崩れても…
土地に密着しつつ生きる人びとの生活が、写実と象徴的な手法を交えながら描き出される社会的リアリズム。そこにはユーモアがあり哀愁をたたえた滋味がある。農場から農場へ渡り歩く浮浪農民“オーキー”の、いずれは自分の土地を持ちたいとの夢、自由で独立した生活へ寄せる夢の果敢ないすがたに、アメリカ商業主義への強い怒りが込められているが、そうした主観を抑えて、あくまでも抑えの利いた冷静な筆致で表現されていく。夢はいつも崩壊してしまうが、醒めて無に帰しながらもなお夢を見ずにはいられない人間の悲ししいサガ。その無邪気な夢を嘲笑することなく、本気で受け入れる仲間同士がいる。
動物たちが数多く登場するのは、この作家のひとつの特徴。他の作品「赤い小馬」や「怒りの葡萄」「遁走」「蛇」などにも。身近な家畜類だけでなく、マウンテンライオンやハゲタカ、ガラガラへび、山猫なども。それらは単に自然の背景ではなく、人間と深く結びつき、大自然と混然一体になっている。
◆〔その時代と文学状況〕
J.スタインベックは1902~68年を生きたアメリカの代表的な作家。「二十日ネズミと人間」Of Mice and Menは1937年に発表されている。1929年、ニューヨーク市場の大暴落があり大不況の時代はまだ続いている。1933年にその不況打開のためフランクリン・ル-ズベルト大統領によるニューディール政策がとられ、つづいて1939年9月には第二次世界大戦に突入する。先が見えず、人生の意義を疑い、時代に幻滅と喪失を感じ、社会と一般大衆には背を向け、創作によって自我を表現しようすることを目的にした「失われた世代」Lost Generationに。ここに登場したのがアメリカ文学の三人の巨星、フォークナーでありヘミングウェイであり、このスタインベックである。フォークナーの「響きと怒り」「野生の棕櫚」、ヘミングウェイの「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」はそのスタイルを“ハードホイルド”と呼ばれ、アメリカ文学の新しい風をもたらし、とりわけ広く迎えられた。そのほかにも、1930年代の社会的な混乱のなかで、アメリカ資本主義に対する痛烈な批判の書、大作の「USA」を書いたドス・パソスや、南部農民の無知と怠慢を描き、アメリカ社会の患部を衝く「タバコ・ロード」を著わしたコードウェル、「人間喜劇」のサロイヤンなども。スタインベックの「勝算なき戦い」(1936年)、リンゴ採取人のストライキに取材したこの作はつぎの「怒りのぶどう」へとつながって結実、これぞ1930年代アメリカ文学の最大傑作とされ、1962年にノーベル文学賞を受けている。
2024年11月16日
F/S.モームの憂鬱
サマーセット・モームを追って

◆S.モームの憂鬱
William Somerset Maugham 1874年、4人兄弟の末っ子としてパリのシャンゼリゼ近くで生まれる(~1965)。アイルランド系の血筋を引き、父はイギリス大使館の顧問弁護士、母は王統の血を引く美女だったが、モーム8歳のとき結核で死去。父も10歳のとき癌で死亡。イギリス・ケント州で牧師をしていた叔父のもとに引き取られる。
日本の作家、樋口一葉(1872~96)、島崎藤村(1872~1943)、泉鏡花(1873~1939)、柳田国男(1853~1962)、与謝野晶子(1878~1942)らとほぼ同時代人。
どもりで背が低いことをコンプレックスにし、女ぎらいになったという。このことの反映か、作品は懐疑的で、人間の不可解性、謎の多い人間の魂を抉りとり、人間を矛盾の塊として描きつづけることになる、…物質主義者であったり無神論者であったり、拝金主義者であったり、女ぎらいであったりする人物像……。「金というものは第六感みたいなもので、これなくしては他の五感も完全な働きはできぬ」、金なしでは恋愛さえもできない、といった冷嘲的な諷刺劇ふうの戯曲を初期のころはさかんに書いた。
◆宇宙の果てまで彷徨う男の魂
40歳のとき、第一次世界大戦の従軍、スイス・ジュネーブでスパイ活動。時間的な余裕があり、執筆活動をはじめて『人間の絆』を書きあげ出版したが、評判にはならず。のちに健康を害して渡米、ハワイ、サモア、タヒチなどの南海諸島にあそんだ。このときポール・ゴーギャンの生き方を知り調査、セザンヌ、ランボー、ゴッホら、時の芸術家の生き方とからめて『月と六ペンス』の想を練る。「男の魂は宇宙のさいはてまでもさまよって飽きることを知らないが、女はそいつを家計簿の枠の中に閉じ込めてしまおうとする」といった見方も。
この作品では、チャールズ・ストリックランドという四十男、ロンドンの株式取引所員のすがたが描かれる。仕事に失望して突然家出し、絵を描きたいとパリへ。そして47歳でタヒチ島にわたり、土地の娘アタと原始林のなかで生活、風土病のらい病にかかって死ぬが、死ぬ前に、盲目になって家の壁面じゅうに「天地創造」を描き、死んだらそれをすっかり焼却させる。
アタは、男の邪魔をせず、ひたすら男に尽くす奉仕型の女性、ほかに馴染んだ女性に、恋愛希求型のブランチ・ストループ、見栄っ張りで社交型、ボヘミアンタイプのエイミーがいた。女ぎらいの作者の心底には、無垢なまでに自分に尽くすアタ以外は、古靴のように捨てるほかなかった。「月」とは何か? 人間を狂気にする芸術的蠱惑・魔術的情熱であり、「六ペンス」とは、古草履のように主人公が否定し棄てた世俗的な因襲と絆のことであったろうか。

◆皮肉と諧謔に満ちた喜劇的な世界
ゴ―ギャンをモデルにしたこの『月と六ペンス』を出版すると、いきなりベストセラーに。その文章の特徴は単純で平明、しかしそこに微妙な陰影をもっているというスタイル。この作品の発刊を機に『人間の絆』も見直され、1910年代の世界の流行作家の一人となる。これは半自伝的な作品で、当初はほとんど評判にならなかったが、「これを書くことにより、自分の中のものが浄化され、本格的な作家への道に立つことができた」。以後、数々の旅行記や小品短篇集、長編の『お菓子とビール』『クリスマス休暇』『剃刀の刃』、自伝的評論『要約The Summing Up』、そして最後の長編『カタリーナ』などを書き残した。
S.モームの人生哲学(『人間の絆』より)
「人生も無意味なものなれば、人間の生もまた虚しい営みに過ぎぬ。生まれようと、生まれまいと、生きようと、死のうと、それは何のことでもない。生の無意味、死もまた無意味……あたかも絨毯の織匠が、ただその審美感の喜びを満足させるためだけにその模様を織りだしたように、人もまたそのように人生を生きればよい。畢竟、人生は一つの模様意匠にすぎないと、そう考えてよいのだ。特にあることをしなければならないという意味もなければ、必要もない。ただすべては彼自身の喜びのためにするのだ。……フィリップは幸福への願望を棄てることによって、彼の最後の迷妄を振り落とした」。後年に書かれた評論“The Summing Up”にも、これと同様の、冷淡に突き放したような記述が見られる。
作家生活にピリオドを打ったあとの最晩年には、極東方面を旅行、東京や京都に4週間ほど滞在したこともあるが、91歳、南仏ニースのアングロ・アメリカン病院にて死亡。

◆S.モームの憂鬱
William Somerset Maugham 1874年、4人兄弟の末っ子としてパリのシャンゼリゼ近くで生まれる(~1965)。アイルランド系の血筋を引き、父はイギリス大使館の顧問弁護士、母は王統の血を引く美女だったが、モーム8歳のとき結核で死去。父も10歳のとき癌で死亡。イギリス・ケント州で牧師をしていた叔父のもとに引き取られる。
日本の作家、樋口一葉(1872~96)、島崎藤村(1872~1943)、泉鏡花(1873~1939)、柳田国男(1853~1962)、与謝野晶子(1878~1942)らとほぼ同時代人。
どもりで背が低いことをコンプレックスにし、女ぎらいになったという。このことの反映か、作品は懐疑的で、人間の不可解性、謎の多い人間の魂を抉りとり、人間を矛盾の塊として描きつづけることになる、…物質主義者であったり無神論者であったり、拝金主義者であったり、女ぎらいであったりする人物像……。「金というものは第六感みたいなもので、これなくしては他の五感も完全な働きはできぬ」、金なしでは恋愛さえもできない、といった冷嘲的な諷刺劇ふうの戯曲を初期のころはさかんに書いた。
◆宇宙の果てまで彷徨う男の魂
40歳のとき、第一次世界大戦の従軍、スイス・ジュネーブでスパイ活動。時間的な余裕があり、執筆活動をはじめて『人間の絆』を書きあげ出版したが、評判にはならず。のちに健康を害して渡米、ハワイ、サモア、タヒチなどの南海諸島にあそんだ。このときポール・ゴーギャンの生き方を知り調査、セザンヌ、ランボー、ゴッホら、時の芸術家の生き方とからめて『月と六ペンス』の想を練る。「男の魂は宇宙のさいはてまでもさまよって飽きることを知らないが、女はそいつを家計簿の枠の中に閉じ込めてしまおうとする」といった見方も。
この作品では、チャールズ・ストリックランドという四十男、ロンドンの株式取引所員のすがたが描かれる。仕事に失望して突然家出し、絵を描きたいとパリへ。そして47歳でタヒチ島にわたり、土地の娘アタと原始林のなかで生活、風土病のらい病にかかって死ぬが、死ぬ前に、盲目になって家の壁面じゅうに「天地創造」を描き、死んだらそれをすっかり焼却させる。
アタは、男の邪魔をせず、ひたすら男に尽くす奉仕型の女性、ほかに馴染んだ女性に、恋愛希求型のブランチ・ストループ、見栄っ張りで社交型、ボヘミアンタイプのエイミーがいた。女ぎらいの作者の心底には、無垢なまでに自分に尽くすアタ以外は、古靴のように捨てるほかなかった。「月」とは何か? 人間を狂気にする芸術的蠱惑・魔術的情熱であり、「六ペンス」とは、古草履のように主人公が否定し棄てた世俗的な因襲と絆のことであったろうか。

◆皮肉と諧謔に満ちた喜劇的な世界
ゴ―ギャンをモデルにしたこの『月と六ペンス』を出版すると、いきなりベストセラーに。その文章の特徴は単純で平明、しかしそこに微妙な陰影をもっているというスタイル。この作品の発刊を機に『人間の絆』も見直され、1910年代の世界の流行作家の一人となる。これは半自伝的な作品で、当初はほとんど評判にならなかったが、「これを書くことにより、自分の中のものが浄化され、本格的な作家への道に立つことができた」。以後、数々の旅行記や小品短篇集、長編の『お菓子とビール』『クリスマス休暇』『剃刀の刃』、自伝的評論『要約The Summing Up』、そして最後の長編『カタリーナ』などを書き残した。
S.モームの人生哲学(『人間の絆』より)
「人生も無意味なものなれば、人間の生もまた虚しい営みに過ぎぬ。生まれようと、生まれまいと、生きようと、死のうと、それは何のことでもない。生の無意味、死もまた無意味……あたかも絨毯の織匠が、ただその審美感の喜びを満足させるためだけにその模様を織りだしたように、人もまたそのように人生を生きればよい。畢竟、人生は一つの模様意匠にすぎないと、そう考えてよいのだ。特にあることをしなければならないという意味もなければ、必要もない。ただすべては彼自身の喜びのためにするのだ。……フィリップは幸福への願望を棄てることによって、彼の最後の迷妄を振り落とした」。後年に書かれた評論“The Summing Up”にも、これと同様の、冷淡に突き放したような記述が見られる。
作家生活にピリオドを打ったあとの最晩年には、極東方面を旅行、東京や京都に4週間ほど滞在したこともあるが、91歳、南仏ニースのアングロ・アメリカン病院にて死亡。