2024年11月16日

F/S.モームの憂鬱

サマーセット・モームを追って




 ◆S.モームの憂鬱
William Somerset Maugham 1874年、4人兄弟の末っ子としてパリのシャンゼリゼ近くで生まれる(~1965)。アイルランド系の血筋を引き、父はイギリス大使館の顧問弁護士、母は王統の血を引く美女だったが、モーム8歳のとき結核で死去。父も10歳のとき癌で死亡。イギリス・ケント州で牧師をしていた叔父のもとに引き取られる。
日本の作家、樋口一葉(1872~96)、島崎藤村(1872~1943)、泉鏡花(1873~1939)、柳田国男(1853~1962)、与謝野晶子(1878~1942)らとほぼ同時代人。
どもりで背が低いことをコンプレックスにし、女ぎらいになったという。このことの反映か、作品は懐疑的で、人間の不可解性、謎の多い人間の魂を抉りとり、人間を矛盾の塊として描きつづけることになる、…物質主義者であったり無神論者であったり、拝金主義者であったり、女ぎらいであったりする人物像……。「金というものは第六感みたいなもので、これなくしては他の五感も完全な働きはできぬ」、金なしでは恋愛さえもできない、といった冷嘲的な諷刺劇ふうの戯曲を初期のころはさかんに書いた。

◆宇宙の果てまで彷徨う男の魂
40歳のとき、第一次世界大戦の従軍、スイス・ジュネーブでスパイ活動。時間的な余裕があり、執筆活動をはじめて『人間の絆』を書きあげ出版したが、評判にはならず。のちに健康を害して渡米、ハワイ、サモア、タヒチなどの南海諸島にあそんだ。このときポール・ゴーギャンの生き方を知り調査、セザンヌ、ランボー、ゴッホら、時の芸術家の生き方とからめて『月と六ペンス』の想を練る。「男の魂は宇宙のさいはてまでもさまよって飽きることを知らないが、女はそいつを家計簿の枠の中に閉じ込めてしまおうとする」といった見方も。
この作品では、チャールズ・ストリックランドという四十男、ロンドンの株式取引所員のすがたが描かれる。仕事に失望して突然家出し、絵を描きたいとパリへ。そして47歳でタヒチ島にわたり、土地の娘アタと原始林のなかで生活、風土病のらい病にかかって死ぬが、死ぬ前に、盲目になって家の壁面じゅうに「天地創造」を描き、死んだらそれをすっかり焼却させる。
アタは、男の邪魔をせず、ひたすら男に尽くす奉仕型の女性、ほかに馴染んだ女性に、恋愛希求型のブランチ・ストループ、見栄っ張りで社交型、ボヘミアンタイプのエイミーがいた。女ぎらいの作者の心底には、無垢なまでに自分に尽くすアタ以外は、古靴のように捨てるほかなかった。「月」とは何か? 人間を狂気にする芸術的蠱惑・魔術的情熱であり、「六ペンス」とは、古草履のように主人公が否定し棄てた世俗的な因襲と絆のことであったろうか。



◆皮肉と諧謔に満ちた喜劇的な世界
ゴ―ギャンをモデルにしたこの『月と六ペンス』を出版すると、いきなりベストセラーに。その文章の特徴は単純で平明、しかしそこに微妙な陰影をもっているというスタイル。この作品の発刊を機に『人間の絆』も見直され、1910年代の世界の流行作家の一人となる。これは半自伝的な作品で、当初はほとんど評判にならなかったが、「これを書くことにより、自分の中のものが浄化され、本格的な作家への道に立つことができた」。以後、数々の旅行記や小品短篇集、長編の『お菓子とビール』『クリスマス休暇』『剃刀の刃』、自伝的評論『要約The Summing Up』、そして最後の長編『カタリーナ』などを書き残した。

S.モームの人生哲学(『人間の絆』より)
「人生も無意味なものなれば、人間の生もまた虚しい営みに過ぎぬ。生まれようと、生まれまいと、生きようと、死のうと、それは何のことでもない。生の無意味、死もまた無意味……あたかも絨毯の織匠が、ただその審美感の喜びを満足させるためだけにその模様を織りだしたように、人もまたそのように人生を生きればよい。畢竟、人生は一つの模様意匠にすぎないと、そう考えてよいのだ。特にあることをしなければならないという意味もなければ、必要もない。ただすべては彼自身の喜びのためにするのだ。……フィリップは幸福への願望を棄てることによって、彼の最後の迷妄を振り落とした」。後年に書かれた評論“The Summing Up”にも、これと同様の、冷淡に突き放したような記述が見られる。

作家生活にピリオドを打ったあとの最晩年には、極東方面を旅行、東京や京都に4週間ほど滞在したこともあるが、91歳、南仏ニースのアングロ・アメリカン病院にて死亡。
  


Posted by 〔がの〕さん at 00:24Comments(0)名作鑑賞〔海外〕

2024年08月25日

JC/光源氏のいる風景

光源氏のいる風景



 「源氏物語」のおもしろさ、魅力とは…?

わたしにとっての「源氏物語」の魅力は? …そう問われて、ひとにわかってもらえる説明がわたしにできるとは思えないんですがね。「もののあはれ」と説くような国学者ならいざ知らず、菲才なわたしなどは、分析的にこれを読むことはできないし、そんなことをしたら、学校の教科書で読んだときのつまらなさと同じで、ちっとも興味がわきませんよね。
ちっとぐらいわからない古語が出てきても、そんなものはすっとばして読む、そこにしか古典文学を読む醍醐味はないように思うことがあります。だって、どうでしょうか、この小説、堅物の乾いた知性主義者は嫌うのでしょうが(陰では案外好きなのかな?)、ほら、“すみれの花 咲くころ はじめて君を知りぬ…”の宝塚歌劇を見ているような錯覚さえ感じることがあるように思うんですよね、「愛」と「恋」の専売特許局としての華麗なるタカラヅカ…。構えて読んだらその味はわからないかもしれませんし。

王朝文化のきらめき
でも、何でしょうねぇ、「源氏物語」の魅力とは…?
「日本古典文学に見ることばの美しさ」をいくら語っても、それはソラゴトでしかないでしょうしね、自分のことでいっぱい、いっぱいの、文章をしっかり噛みしめて読むことをしなくなって、ただシッタバッタと東奔西走するいまどきのパソコン族、ケータイ・スマホ族にとっては。
でも、心落ち着けて声に出して読んでみると、ことばに独特のリズムがあって心地よく、ゆりかごにゆられているよう…、ということがあると思います。格調高い、金襴緞子を敷き詰めたような美しいことばの世界には、背筋をスッとさせるものがあります。
それに、王朝文化のきらめきが放つ魅力、そのゆったりとした流れに癒しを求める人もないではないはず。季節行事に見るゆかしさや女たちの着る衣装の繊細さ、色のあでやかさ。NHK大河ドラマ「光る君へ」でご覧のとおりの豪華さ。そこに通う風が、妙に日本人の本源的な感覚に合う、というか、わたしたちの感覚の奥のところまでじわじわと沁みてくるような、なじみあるなつかしさを覚える、ということ。
また、これまで知らなかった日本の時代を知る驚きの機会ともなりますね。王朝時代のきらびやかな文化、わたしたちの知らない、あるいは忘れかけた世界、でもそこはもともとわたしたちのいた故郷、へ導いてくれるパワーと魅惑がありますね。


紫式部の部屋をおとずれる藤原道長


さまざまな愛のかたち
正直なところをいいますと、わたしのような卑属で凡愚なものにとっての「源氏物語」の魅力、いや、おもしろさを、あえて一言であらわすなら、壮大な「恋の万華鏡」だ、ということでしょうか。“いい女”のオンパレード、そして、地位において、経済力において、容姿において、「光る」源氏の連綿たる女あさり。「光」乏しいわが身にひきかえ、欲しいと思えばどんな女でもモノにできる、光そのもののような男への羨望であり憧れであり、また嫉妬、揶揄と侮蔑。…いや、やっぱり、やっかみかな? 永遠の女性たる藤壺がいるかと思えば、“一見美人”とは違って底光りのする美しさの明石の上がおり、末摘花のようなゲテモノや、老いてますますおさかんな源典侍(げんのないしのすけ)のようなバケモノもいる。もの堅い空蝉や朝顔がいるかと思えば、娼婦のような根っからのおとこ好きの夕顔や朧月夜のようなのもいる、と、いろいろなタイプの女性が登場してきて「愛」を結ぶわけですが、考えてみれば、終局的には、ことごとくその愛はその場かぎりの失敗作で、未来につながるものがない。
だってそうでしょう、あれほど多くの女性と交情した浮かれ男のくせに、子どもはあまりいないですよね。その時代、少子化は流行らなかったはずなのに、生産性に乏しい男。反面、これは紫式部の敷いた皮肉か、息子の夕霧のほうは、まじめ一方の堅物であり、要領の悪い愚直な律儀もの。しかし、めでたくも、たくさんの子女に恵まれています。


低音部をなす無常観
教科書でしか「源氏…」を読んだことのない人には知られることのない物語世界ですが、遠い世界の浮かれたスケベばなしというだけではないんですね、これ。人間の生と死、読み進んでいくと、ゴォーン、ゴォーーンと、人生無常のひびきが不気味な低音部をなしていることがわかります。ついにあまり親しめなかった正妻の葵の上が死の床につき、六条御息所が怨念深く死に、あんなに憧れていた藤壺の宮も、夕顔も、そしてついには最愛の紫の上にも先だたれます。空蝉も朧月夜も出家して世を捨てて、源氏はたったひとりきりで残されます。光につつまれた驕慢な美貌の貴公子が完膚なきまでにたたきのめされる哀れな姿は、わたしのような光乏しい存在にとっては、それ見たことか! とちょっとうれしくなっちゃうんですね。人生、そんなにうまくいくもんじゃないだろ、バカめ、とベロを出したくなる痛快な展開。
王朝時代の才女、紫式部のエスプリをきかせた皮肉が、殺伐としたこの煩雑な世にすれ切れてよれよれになって生きる、この光乏しいこの存在をホッとさせてくれる、といったところか。


やんごとなき宮廷生活のかげに、悲しみと怨みに慟哭する姿も
菲才をかえりみず愧じをしのんで言えば、「源氏物語」は、やんごとなき公達が繰り返す恋と性の渉猟物語として読まれる(いや、あまり読まれない)古典文学ですが、なかなか通して読むまではできないながら、気に入ったところを繰り返し、声に出して読んでいると、そののびのびとした円転滑脱な発想がよく見えてきますし、王朝文学の特徴とされる精緻幽婉な感情をたっぷりと楽しませてもらえるとともに、意外かも知れませんが、ある部分は躍動的、いや、活劇的でさえある部分もあって、こちらをハラハラ、ドキドキさせてくれます。夢中にあるような酔い心地さえ覚えます。そして、四季の自然にまみれ、自然にまろぶ彼らの生活は、情趣深いものがあって、読むもののこころを豊かにしてくれます。色彩感覚にも富み、華麗な夢の万華鏡ですね、やはり。しかも、もう一歩深く読めば、やんごとなき上流貴族のきれいごと、苦労知らずのめでたさではなく、じつは悲哀に号泣する人間の姿、怨念に慟哭し咆哮する人間の、なまなましい姿も見えてきます。みんな合わせて、これぞ日本人の美意識の原点であり、今日にいたるまで、日本人の趣味生活のあらゆる面で、この物語が直接間接に影響していることが知れます。
  


Posted by 〔がの〕さん at 00:20Comments(0)日本古典文学

2024年06月14日

JC/紫式部 VS 清少納言

紫式部 VS 清少納言

 ✦王朝時代のふたりの才女
平成・令和の知性たるみなさまに問います、…あなたは清少納言派? それとも紫式部派?
 遠い平安時代中期に生きたふたりの才女ですが、この機会にその生年・歿年を調べてみました。調べましたが、正確なところはわかりませんでした。諸説ありますが、それをまとめますと、清少納言は966年ごろに生まれ、1021~28年に死去しており、紫式部のほうは、970~78年に生まれ、1019年または1931年に歿したとされています。ほぼ同時代人ですが、清少納言のほうがわずかに年上だったということでしょうか。
               ☆
――清少納言は、見捨てられわびしくなっていく中宮定子のサロンを、少しでも楽しげにしようと一人踏ん張った女性。そのため、さがったあとは発狂し、かなりつらい最晩年だったようです。人間は豊かであれば「あわれ」を説き、わびしいからこそ「をかし」を説くのだな、と思ったものでした。シェイクスピア(英・1564-1616)よりもはるか以前にあれだけの長編大作を書き上げた紫式部は、さすがにすばらしい才能の持ち主であることは否めません。その作品とともに最高度の敬意を持っていますが、紫式部の日記に、「清少納言は知ったかぶり女で、大した教養もないくせに、偉そうにしている。私だって漢詩くらいは作れるけれど、そういうのをひけらかさないから、いいのであって、あんなふうに間違いだらけの漢詩を作ったり知識を披露するのは軽薄な証拠。あんな女の行く末は、きっとひどいものでしょうよ!」とまで言い切っています。そして、悲しいことに、清少納言の行く末は紫式部が予言のとおり、悲惨なものでした。こうしたとがった言い方を見ても、相当負けん気の強い女性だったののでしょうね。〔MKK〕

         

そうそう、『源氏物語』が「あはれ」の文学といわれるのに対して、清少納言の『枕草子』は「をかし」の文学といわれますね。わびしいから「をかし」を説いたとするには、ちょっと違和感を感じないでもないですが、それはあとのことにして、万華鏡のように多彩で、明るく奔放な世界を描いていますね。藤原道隆の長女に生まれ、一条天皇に入内していた中宮定子。その後宮には、選り抜かれた才媛たちが集まっていました。そのなかでもとび抜けた才(ざい)を発揮したのが清少納言。“香炉峯の雪”のエピソードが有名ですよね。
というわけで、MKKさんはどうやら清少納言ではなく、紫式部ビイキのご様子。はい、それならディベートといきましょうか。わたしは清少納言の側に立ちましょう。つい最近、NHKの大河ドラマで知ったのですが、〝せいしょうなごん〟ではなく〝せい・しょうなごん〟と呼ぶのが正しいようですね。

 ✦陰謀術策うずまく社会で

清少納言の後宮への出仕は28歳のとき。中宮定子は17歳でした。中宮定子のおぼえめでたく、彼女はこのサロンの花形として、華やかな女房生活をし、後宮全体をまとめつつ中心的に活躍していたようです。
隠微な嫉妬と対抗心と嫉妬もあって、紫式部からは「したり顔にいみじう侍りける人」と評され、好印象を与えていなかった模様。陰謀と策略の渦巻く、煩わしく複雑な当時の政治世界と対人関係のなかをしたたかに泳ぐ術を知っていた紫式部とは違い、清少納言は本質的に政治性のない人。物事にあまり拘泥しない、陰湿ではない、こころに裏オモテのない、底抜けにお人よしな、気性の美しい人。高度にリアルな人生観照をもつ紫式部のような大人の知恵を持ち合わせなかった女性でした。「したり顔」なんていわれる筋合いはなく、すてきじゃないですか、こんな女性。その無礼な汚いことば、そっくりそのまま紫式部にお返しすればよかったのに。もっとも、それをしないのが窈宨たる清少納言の奥ゆかしさであり自信でもあったのでしょうが。
               ☆
 紫式部は『源氏物語』の末摘花のモデルとされていますね。クモの巣の張る落ちぶれた宮家の姫とされ、青白い不健康な顔に赤い鼻という不美人。光源氏ともあろう人がどうしてあんなパッとしない女を…、とうわさされる女性。まあ、不美人ながら床じょうずで情がこまやかとされています。しかし、末摘花なら、まだしも控えめということを知っていますよね。紫さんにはそれがない。それくらいですから、どうやらこころの底に暗いコンプレックスをもっていたようで、嫉妬深く心根がどうもきれいじゃない。タチがわるいことに、今をときめく権力の側にいるので、傲慢不遜ときている。自分の目の届くところに見目麗わしい、評判のいい、すぐれた女性がいると知ると、もう我慢ができない、片っ端からこきおろしていたようです。ときどきわたしたちの周囲にもいるじゃなですか、高い教養を持ちながら、カサ高く可愛げのないそんなひとが。

 ✦いずれおとらぬ女流歌人たち
ひどいのにこと欠いて、和泉式部のことさえ「蓄積のないひと」とケチをつけている。「その和歌はパッと見たところはまあまあいいようだけれど、所詮は、たいした学問のないもののつくった、空っぽな歌」ですって! もう、偉そうに! 冗談じゃありません。この時代を生きていた女性のなかで和泉式部ほどモテた女性はほかにはおりません。みめうるわしく嬋娟たる女性で、情がこまやかで、学問の底も深く、魅力的で、上品な色香をただよわせ、このひとといっしょにいると、何かいいことがありそうな…。ともに語るに十分足るひとですよ。「ものおもへば沢のほたるもわが身よりあくがれいづるたま(魂)かとぞおもふ」なんて歌をもらったとしたら、たいがいの男はまいっちゃうでしょうね。「黒髪のみだれもしらずうちふせば まづかきやりし人ぞこひしき」、恋の絶唱です。人間にツヤがあるというか、相手を思いやるやさしくあたたかい愛があります。天性の愛の詩人といえないでしょうか。
天性の詩人ということでいえば、和泉式部以上にわたしが評価している女流歌人がいます。赤染衛門。長文になりましたのでその歌についてはここではふれませんが、なんとまあ、あきれたことに、紫式部はこの赤染衛門までくさしている! もう人格を疑うね、紫さん。
               ☆
あの時代の女性たちが今の時代に生きているとして、デートするとしたら、まあ、鼻っぱしが強く根性曲がりの紫さんじゃないですね。和泉式部か清少納言。わたしじゃあチト役不足だということはこの際別にして、うん、デートしてみたいね~。もっとも、清少納言は、時間ぎりぎりにやって来て、息せき食事をしてコーヒーを飲んで、ひとりでしゃべりたいだけしゃべって、「あっ、わたし用事思い出したわ。帰らなくっちゃ」と、さっさと帰ってしまうようなタイプ。才気ほとばしり、楽しい話題をたくさんもっていて退屈しないのですが、…ちょっとねぇ。その点、和泉式部はそうじゃない、こちらの気持ちをよくわかって、最後の最後までつきあってくれそう。いいなあ、こんなひと。抛っておけないよ、男なら。
               ☆
995年4月、道隆が死亡します。その際、権力は道隆の子の伊周(これちか)には移らず、仕掛けられた策謀により、定子の叔父(道隆の弟)にあたる藤原道長に渡られます。これにともない、中宮定子も禁中を追われる身となり、苦境におちいります。
菅原道真に対する藤原時平、藤原道隆・伊周に対する藤原道長。『大鏡』でとくに「才(ざえ)の人」の双璧とされた道真・伊周。そういう相手をうまうまと陥れた時平と道長は、表面は温雅ながら、じつは権謀術策に富む政略家の政敵。合理的な機略に富むタイプですね。こすっからく、権力をねらって陰に陽にいやがらせと圧迫をかけていた、わたしにはどうにもいけ好かない存在たる道長の、そのむすめ、のちの上東門院彰子に仕えたのが紫式部。百戦錬磨のすれっからしの、にくらしいほどしたたかな女、世に天才はわれ一人とでも思っているのでしょうか。その点、白痴のようにストーンと抜けたところもあって、プラス指向で、無垢な少女のように明るい清少納言て、ね、たまらなく可愛いじゃないですか。

 ✦おかきしきことのみ多かりき
定子の兄弟たる頼みの伊周の失脚につづき、1000年、定子は出産のあと24歳であわただしく死んでしまいます。清少納言も35歳で後宮を退くことに。こののち間もなく『枕草子』は成立していますね。NHKのドラマでは、それを書くよう促したのが紫式部(まひろ)となっていましたが、それは脚色上のサーヴィスで、そんなことはありえませんね。
激動の政治的情勢のなか、この作品のもつ静穏な明るさはちょっと異様かも知れません。ですが、滑稽なものを滑稽といい、おかしいもの(美しいもの)をおかしいといっている率直さ、直截さがこのひとの味でしょう。ですから、書いているものはちっともむずかしくありません。政治の暗い影などありません。紫式部に見る「大人の知恵」などぜんぜん持ち合わせなかったかのようにさえ見える、そのカラリとしたこだわりのなさは、清少納言の生来のものだったかも知れませんが、国語学者で『源氏物語』研究の第一人者の池田亀鑑博士は、『枕草子』というこの随想はもともと、中宮定子の遺子である一品宮脩子(ゆうし)という内親王の姫女に捧げるための、中宮定子賛美の書であったとしており、そういうこともあって暗いむずかしい部分は避け、「をかし」に終始したと考えていいではないでしょうか。
               ☆
 MKKさんが書いてくださっているように、彼女の晩年は不遇で悲惨なものでした。その落魄ぶりについては『今昔物語』や『古事談』に見られるそうですが、わたしはそれについてはよく知りません。ひとつだけ『古事談』で語られる伝説をご紹介します。
才媛の名をほしいままにした清少納言ですが、のちには零落してみすぼらしい廃屋に住んでいました。あるとき、若い殿上人たちがひとつの車に同乗してその家の前を通りかかります。見れば、いらかは破れ、土塀は崩れ、見る影もないていたらくぶり。「少納言無下ニコソナリニケレ」(あ~あ、清少納言もさんざんだなあ)と無遠慮に話している若者たち。それを清少納言が聞いていて、破れた簾(すだれ)をかき上げると、鬼形の女法師のような顔をつきだして「駿馬の骨をば買わずやありし」(死んだ馬の骨を買った人だってあるじゃないの!)と、中国の昔ばなし、燕王の故事を持ち出して言い返したとか。ここには「香炉峯の雪は?」と問われ、御簾を高くあげて中宮を感服させた清少納言の機転と高い教養を示すエピソードがもじられていますね。
どうもご退屈さまでした。紫式部を悪しざまに書きすぎましたが、どなたか、何を言うかと紫式部の側に立った反論を期待しています。

  


Posted by 〔がの〕さん at 17:40Comments(0)日本古典文学