2016年12月01日

Af/フェルメールの描く女

フェルメールの描く女


黄色で表現されるつつましさ、庶民性


何も知らずに地下鉄乃木坂駅につづく会場についたところ、
ジャスト今日から「フェルメール展」が始まったことを知りました。
「牛乳を注ぐ女」のポスターの前に来て、うっ、うっ、うっ、脚が、脚が、動かない! 
オランダの国立美術館の至宝で門外不出とされているあの作品が来ている! 
ご存知と思いますが、「真珠の耳飾りをした少女Girl with a Pearl Earring」とともに、
だれもがよく知るフェルメールの傑作。
世界じゅうの人びとに愛されている作品で、あの、やわらかい光に包まれた永遠の静謐を、
わたしもたいへん愛してきました。
わが国で初公開される作品、これを見逃すテはない。
台所の片隅に立ち家事労働をする女性、美しい女性とはいえないながら、
どっしりとした存在感とホッとする自然感、真実性、
永遠性を描きだすフェルメールJohannes Vermeer(1632-75) の魅力の甘い誘惑に身を任せて…。




先日TVで改めて「真珠の耳飾りの少女」の映画をみて、
フェルメールの本をひっぱりだしていたところでした。たまたま昨年、花の5月に
オランダへ出かける機会があり、アムステルダム国立博物館で「牛乳を注ぐ女」を見、
ハーグのマウリッツハウス美術館では「真珠の耳飾りの少女」や
「デルフトの眺望」の前に立つことも出来ました。〔BBJ〕
 

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「真珠の耳飾り…」が映画になっているのですか、へぇ~。
“真珠”よりは、斜めうしろに振り返るその率直な目の、深く澄んだ瞳と、
髪を覆う布の青のあざやかさが印象的な絵。
あの少女がどんな物語をつむいでいくのか、ワクワクさせるものがありますね。
オランダの風を感じながらあの少女を、また窓辺に立ち「牛乳を注」いでいる女性を
ご覧になったのですね。
とくに上品ということでもなく、素朴で質実な生活感覚が描き出されています。
いやいや、いい絵はぜひそんなふうにして、その地の光の下、
その地の空気の中で見たいものですね。
今回はアムステルダム国立美術館が改修工事に入るということもあって、
その間に日本に初めてやってきたようです。
そんなことがなければ東京で見ることはできない作品で、
国立新美術館開館記念の特別企画とのこと。
フェルメールは、稀れなほど寡作な画家ですしね。
ほかにもたくさんのオランダ絵画が見られましたが、やはりフェルメールがいい。
じつはこの「牛乳を注ぐ女」、その印象からしてもっと大きなものかと思っていましたが、
事実は、意外に小さいんですね。一辺が60~70センチくらいだったでしょうか。
にもかかわらず、描かれた“女”の存在感には圧倒的なものがある! 
傑作とはそういうものなのかもしれませんね。
観ているこちらまでぽかぽか暖かくなってくるような、窓から射すやさしい光。
雇われて台所で働く、豊かさには縁のない、貧しい使用人でしょうか。
その情感を押し殺した表情。腰にざっくりと巻きつけられた、
雑な縫い取りのみられる青い布(スカート?)。
どんな家庭生活をもった女なんでしょうか。いろいろ考えさせられます。

※ひとつ訂正させていただきます。
 この「牛乳を注ぐ女」、その印象からしてもっと大きなものかと思っていましたが、
事実は、意外に小さく、一辺が60~70センチくらい、なんて書いてしまいました。
絵のサイズを、改めて資料を見て調べましたら、
60~70センチくらい、なんてとんでもない、41.5×41.0センチだそうです。
ヘェーッ! て感じ。わたしの目も完全にだまされましたね。
小さい! にもかかわらず、小ささを感じさせないパワーがある、ということ。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」、あの傑作を見た友人も言っていました。
もっと大きいものと思っていたが、意外に小さなものだった、と。
タテ77.0センチ、ヨコ53.0センチ! その倍寸くらいの印象がありますよね、
あの作品には。


>フェルメールが来ていること、知りませんでした。
以前、大阪に来たときには、次女が生後半年だったにもかかわらず、
この世界の至宝を見逃せない、と家族5人で見に行ったものでした。
今回も、ぜひ見たいものです。〔DRT〕
  
  
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ぜひご家族そろってまたご覧になってください。
わたしの場合、「新制作展」をまわったあとのハシゴで、
疲れはててなお無理して観たものですから、
フェルメールの あの“MILK MAID” の印象ばかり。
あとは、はじめて観るファン・デル・ヴァーイという画家の作品
「アムステルダムの孤児院の少女」。光の射す台所にスッと立って本を読む
その横顔の美しさが忘れられません。 
フェルメールの影響を受けた画家たちは
こぞって台所を舞台にさまざまな時代風俗を描いています。
ここにこの時代のオランダ社会の断面を見ることができますし、
絵画の分野において17世紀オランダというのは稀有な黄金期だったのかも知れません。




永遠の静謐

フェルメールの作品は一点だけ今回日本にきているそうですね。
よく見かける絵ですが、実物を見てみたいと思います。〔HRM〕


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 世界で広く愛されている絵ですね。
HRMさんはよくヨーロッパの美術館めぐりをなさいますが、
この作品のあるオランダのアムステルダム国立美術館にはおいでになっていませんか?
 わたしもこの画家の絵をそんなに知っているわけではありませんが、
この「牛乳を注ぐ女」と「真珠の耳飾の少女」、それに「刺繍をする女」については、
ずうっと以前から大好きな作品でした。あまり話題にはなっていませんが、
とりわけ、下うつむいてひたむきに「刺繍をする女」の肖像なんて、
たまらない魅力を感じます。もちろん、オランダへ行き、じかに観たわけではなく、
画集で見ただけにすぎませんが。
 日本人画家はほとんど、人物の着る衣服に黄色をつかうことはありません。
まれにあっても、どうも落ち着きがなく、
こちらをホッとさせてくれるものはないように思います。
ところが、フェルメールの描く女性はこの黄色い衣服を着ています。
日本と西洋の感覚的な相違でしょうか。
上記3点の作品とも、けばけばしい印象はなく、むしろ静謐さと緊張感とともに、
つつましやかで自然な庶民性を、この色で出しているように思います。





 
先日の朝日新聞夕刊の「美の履歴書」で編集委員の人がこの絵のことを紹介していましたね。
おもしろい着眼で、「牛乳を注ぐ女」の絵の「心地よさを生む最大の要因は、
背景の白いしっくい壁ではないだろうか」と書いていました。
「白」といっても純白ではなく、相当くすんでいます。
柔らかい光の濃淡はあっても、そんなに細工を施しているとも思えません。
その単調さが人物の存在感を浮き立たせていると見られます。
 どうやら、X線や赤外線で調べたところによると、
その壁面の部分にはもともと、暖炉や地図や絵の入った額など、
いろいろなものが描かれていたらしい。女の足元には洗濯かごがあったとも。
そういう不要な夾雑物を排除して、
存在そのものを描きだした作品と言えないでしょうか。



  


Posted by 〔がの〕さん at 00:20Comments(0)美術(海外)

2016年07月15日

Af/マネ「すみれのブーケをつけたモリゾ」

小夜とともに…美術館の巻
マネ「すみれのブーケをつけたモリゾ」 
   「知られざる傑作」のバルザックの美術論から見る




小夜: 知りませんよ。もう、おとうさんは会場を出てしまったのかと、そして、小夜はひとりでどうやっておうちに帰ればいいのだろうかと、そればっかりでした。おじいちゃんが、「いやいや、きっとまだ会場にいると思うから、戻ってみよう、いっしょに探してあげよう」と言ってくれたの。そうしたら、おとうさん、まだマネの「モリゾ」の前にいるじゃありませんか! まるで魂の抜けたおバカさんみたいな顔をして。
がの父: ひどいなあ、魂の抜けたおバカさん、だなんて。
小夜: ひどくなんかありませんよ。どれくらいの時間、おとうさんはあそこにつっ立っていたと思っているのですか。20分、30分、いや、もっといたかもしれません。ほかの人は、押すな押すなの波のままに動いているのに、おとうさんだけ、ボーッとうしろのほうに立っているのですから。
がの父: うそでしょう。そんなに長くはないと思うけど。

小夜: あきれてしまいます。ほかのみなさんにはご迷惑ですし。
がの父: でもね、お別れしようとすると、モリゾさん、おとうさんにボソッとつぶやくのよね、「行ってしまうのですか。もう少し、もう少しだけいっしょにいてくださいませんか」と。あの、涼しげな、いかにも賢そうな瞳にいっぱい涙を浮かべて。「いやいや、悪いけど、むこうで小夜が待っているので」と、おとうさんが言うと、「悲しいわ。ふたりの恋はこれで終わってしまっていいのですか。もう二度と逢うことなく、ここでこのままお別れしてしまって、ほんとにいいのですか」と。
小夜: そんなこと、モリゾさんが言うわけ、ないじゃありませんか。おとうさん、おかしい。そのくせ、せっかく来たのに、ほかの絵の前はほとんど素通り。写真や陶器のコーナーなどは、ぜんぜん見もしませんでした。
がの父: いやいや、そんなことはありません。ほら、先週木曜日にあった市民アカデミーでバルザックの「知られざる傑作」をめぐって、このフランスの文豪の美術論を口演したばかり。その影響をバッチリ受けていたので、おとうさんの絵の見方も違ってきたのよ。違ってきた、というより、ずっとずっと深いものになったのよ。
小夜: バルザックの美術論とマネの「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」と、どんな関係があるのですか。
がの父: 小夜ちゃんがそんなにツンツンすると、おはなししにくいなあ。
小夜: はい。それでは、静かに拝聴いたします。

芸術の神の魂を詩人の心で描く
がの父: 「知られざる傑作」は、岩波文庫でわずか50ページほどの短篇。メディチ家のおかかえ画家、肖像画家として売れっ子だったポルビュスや、古典主義絵画の巨匠プッサンが登場し、そこに謎の老画家フレンホーフェルという想像上の人物がからんで、芸術創造の窮極を探る、深いテーマの奥行きをもつおはなし。短篇ながら、じつは、これってヨーロッパの近代絵画に絶大な影響を与えたものだったのです。たとえば、ピカソ。
小夜: はい、ピカソ。今回の展覧会では一点も出ていませんでしたけれど。
がの父: 「知られざる傑作」の書き出しはこうなっています、
「一六一二年も暮近く、十二月のある寒い日の午前、見たところひどくみすぼらしい身なりの若い男が、パリのグラン・ゾーギュスタン街の、ある家の門口の前を行きつ戻りつしていた」
と。駆け出しの画家、青年のプッサンが初めてポルビュス画伯のアトリエを訪ねる場面です。この、パリのセーヌ河に近いグラン・ゾーギュスタン街、といったら、何か思いあたりませんか。
小夜: いいえ、知りません。パリには行ったことありませんし。
がの父: ピカソが50歳代半ばから74歳までの18年間そこに住み、アトリエを構えたところです。有名な「ゲルニカ」もここで描かれたそうです。ピカソのあの画期的なキュービズムも、このアトリエ、いえ、バルザックのその「知られざる傑作」から生まれたといえるかもしれません。
小夜: 「ゲルニカ」の絵は知っています。スペイン内戦を描いたといわれる作品。
がの父: 画家はよく風景画を描きます。フレンホーフェルという謎の老画家、すなわちバルザックは、自然を模写しただけの絵は画家のものではない、そんなものには何の値打ちもない。そんな自然を糊づけしたようなものではなく、「自然を表現したもの」、芸術の神の魂に映じた自然を詩人の心をもって描いたものでなければならない、と。とかく理解を超える絵、狂気の絵とされますが、ピカソは間違いなく忠実に自分の詩心を動かすものを表現した画家です。
小夜: わかりません。…ちょっとわかったような気もしますが、でも、わかりません。
がの父: わかりませんか。では、モリゾさんのほうに両手を差し伸べてごらん。ね、手がモリゾさんの後ろまでまわるように思いませんか。そこです、いい絵か、つまらない絵か、それを分けるのは。
小夜: はい、抱きしめられているような…、モリゾさんの心臓がドックン、ドックンと鳴っているのが伝わってくるわ。
がの父: 小夜ちゃんはギュスターヴ・モローの「ガラテア」の前でクギづけでしたね。きれいな幻想を見せてくれる、神秘をたたえたすぐれた作品です。繊細ですね、女神の裸体の輝かしい美しさのほか、草花の一本一本までものすごく細かに描き込んでいますね。よく見ると、いろいろなところに隠し絵が埋め込まれていたりして。ところが、マネのモリゾ像はどうでしょう。
小夜: 筆をサッと走らせただけのような。筆のあとが残っています。ずいぶん対照的。
がの父: たしかにラフな筆づかいです。にも拘わらず、そこには、空気や空や風の動きまで表現されています。人物が生きていて、呼吸をしています。心臓が動悸をきざんでいます。鈴のように清らかな声でおとうさんにささやきます、「よく逢いにきてくださいました」と。
小夜: それはどうでしょうか。

描いていないけれど、描いている絵
がの父: 髪がそよ風に波うち、そのもの静かな落ち着きと、秘められた情熱を表情に呼び起こす血のぬくみが走っています。
小夜: 色数も少なく、衣服も帽子も黒、首に巻いているネッカチーフも黒。胸元を飾るすみれのブーケも、それほど目立ちません。しかも、黒は深いですね。憂鬱なほど地味なはずなのに、印象はぜんぜん別で、逆光のなかで、その存在が生き生きと輝いているように思います。キリリとしていて、媚びのかけらも見られない表情のなかに、ふしぎな輝きがあります。
がの父: マネ独特の深い黒です。ラフな筆運びで描かれています。輪郭もあいまいで、しっかりスケッチし、下絵をたくさんつくってから描き上げたという感じはありません。どうでしょうか、この絵には何かが欠けていると思いませんか。
小夜: 何でしょう。もちろん、非現実、神秘の世界を描くモローのあの細密な作品と対比したら、欠けたところばかりですけれど。
がの父: この作品には何かが欠けている。いや、何でもないものが欠けているのです。ところが、絵においては、この“何でもないもの”がすべてと言ってもいいんです。“何でもないもの”……、外観ではぜったいに捉えることのできないもの、ことばにもしにくい、形をもたないもの。そうですね、生彩のない幽霊ではない、小夜ちゃんもさっき感じとった、ほのあたたかい息吹き、雲のように漂う小さな“生命の花”とでもいうような……。描いてはいないけれど、対象を生き生きとさせるいちばん肝心なところは、魂のかぎりを尽くして描いた絵、といえるように思うのです。
小夜: おとうさんは、すっかりバルザックの魔術の罠にはまったようですね。小夜も今度はそんな眼で絵を観るようにしようかと思います。おとうさん、また行こうね、美術展に。
がの父: おっ! やっと、泣いたカラスが笑ってくれました。今回見たオルセー美術館展。おとうさんが聞くかぎりでは、オルセーには、印象派絵画を中心に、もっともっとたくさんの優れた絵が所蔵されているはずなのよね。その点でちょっと物足りなかったな。恋するモリゾさんに逢えたことでよしとしますか。それに、こういう絵は、やはり、パリの風を感じながら見ないことには、本当じゃないな、ということかな。
小夜: おとうさんを探しでひどいめにあいましたけれど、あのひげのおじいちゃんがいっしょにいて、小夜を前に押し出してくれましたので、人混みでも絵はよく見られましたし、小夜に似ているといわれる女の子、ルノワールの「ジュリー・マネ」(ネコを抱く少女)もしっかり見られましたから、ま、いっか。小夜はあんなに丸顔で可愛くはありませんけどね。今度行くときは、小夜の手をぜったい離してはいけませんよ。


モリゾによる「庭のマネとその娘」  女流印象派画家を代表するモリゾは
マネの絵のモデルになっただけでなく、終生マネに師事していました。
師のマネの実弟ウジェーヌと結婚。この絵は、別荘の庭であそぶ
ウジェーヌと一人娘のジュリーを描いたもの。


  


Posted by 〔がの〕さん at 10:55Comments(0)美術(海外)

2016年06月07日

Af/ギリシア神話の変身物語

ギリシア神話の変身物語
   美しさの背面にある悲しいものがたり、
ローマの詩人による人間と自然の一体化




上の彫刻は、ギリシア神話の変身物語を典拠にした作品の代表的なもののひとつ。
アポロンの執拗な求愛を逃れて父親の川の神ペネイオスに助けを求めている少女ダフネですね。
詩神アポロンの求めを拒んで逃げに逃げ、いよいよ追い詰められると、
乙女の美しい身は手の先、足の先から月桂樹に変わったといわれます。
わたしはこの作品をじかに観ているわけではありませんが、
巌谷國士さん編の奇書「渋沢龍彦幻想美術館」の紹介によると、
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの作、ローマのボルゲーゼ美術館に所蔵されている作品とか。
古代ローマでは、戦闘やスポーツ競技に優勝したものには、
栄光のしるしとして月桂樹の冠が与えられていたことは、みなさんもよくご存知のとおり。
イギリスでは桂冠詩人という誉れ高い称号もありましたね。
それに、アポロンがいつも持っている竪琴Lyla は、たしか、月桂樹でつくられていたと思います。
ダフネに寄せる深い思いでしょうか。
          ☆
植物や花に変身するこうしたきれいな話、ふしぎな物語が
ギリシア神話にはたくさん見られますよね。
有名な話では、水のおもてに映る自分の姿にすっかり魅せられて恋をして、
恋に憔悴するあまり、スイセンになってしまった美青年ナルキッソスとか、
狩猟をしているとき、イノシシの牙にかかって死んだ美少年アドニスの話。
死体から噴き出した血がまっ赤なアネモネになったという物語でしたね。
もっともこれらは、「ギリシア神話」というよりは
「ギリシア・ローマ神話」というべきなんでしょうね。
ギリシア神話では、あの壷絵や彫刻などに見るように、
自然の植物や動物がていねいに描かれることは少なく、神々や人間のすがたがほとんどでした。
それが、ローマに移されると、大きく変わりますね。
オウィデウスの『変身物語』は、鳥や木や草花に変身して、永遠の生命を獲得し、
自然と一体化して生きる存在が主要なテーマとなっている神話に“変容”させたものです。
上に紹介した、月桂樹に変身した美少女ダフネや、スイセンになった青年ナルキッソス、
アネモネに変身した少年アドニス…、このほか、ヒヤシンスに変身した少年ヒュアキントスもいるし、
アドニスの母ミュラは没薬の木に、ピレモンとバウキスの老夫婦は二本の寄り添う木に、
ヘリオスの娘たちはポプラに、クリュティアはひまわりの花になっています。
こうした美しくも悲しい花物語だけでなく、
アルキュオネはカワセミになったし、アラクネは蜘蛛になり、
カリストとカルカスの母子は大熊座・小熊座に、
アクタイオンは鹿に変身、その鹿をかみ殺した猟犬は大犬座・小犬座になったとされます。
          ☆
オウィデウスは「ギリシア神話」からそういうモチーフを抜き出し、
自然と一体化して永遠の生命を生きるものたちを作品化しているんですね。
もともと灰褐色の岩がごつごつ折り重なる不毛の地であったアルカディアは、
ローマの詩人たちによって、緑したたる、陽光やさしい田園として表現され、
永遠の理想郷となってしまったから、ふしぎなことです。
文芸の力、美術の力って、すごいですね。


  


Posted by 〔がの〕さん at 12:22Comments(0)美術(海外)