2024年06月14日

JC/紫式部 VS 清少納言

紫式部 VS 清少納言

 ✦王朝時代のふたりの才女
平成・令和の知性たるみなさまに問います、…あなたは清少納言派? それとも紫式部派?
 遠い平安時代中期に生きたふたりの才女ですが、この機会にその生年・歿年を調べてみました。調べましたが、正確なところはわかりませんでした。諸説ありますが、それをまとめますと、清少納言は966年ごろに生まれ、1021~28年に死去しており、紫式部のほうは、970~78年に生まれ、1019年または1931年に歿したとされています。ほぼ同時代人ですが、清少納言のほうがわずかに年上だったということでしょうか。
               ☆
――清少納言は、見捨てられわびしくなっていく中宮定子のサロンを、少しでも楽しげにしようと一人踏ん張った女性。そのため、さがったあとは発狂し、かなりつらい最晩年だったようです。人間は豊かであれば「あわれ」を説き、わびしいからこそ「をかし」を説くのだな、と思ったものでした。シェイクスピア(英・1564-1616)よりもはるか以前にあれだけの長編大作を書き上げた紫式部は、さすがにすばらしい才能の持ち主であることは否めません。その作品とともに最高度の敬意を持っていますが、紫式部の日記に、「清少納言は知ったかぶり女で、大した教養もないくせに、偉そうにしている。私だって漢詩くらいは作れるけれど、そういうのをひけらかさないから、いいのであって、あんなふうに間違いだらけの漢詩を作ったり知識を披露するのは軽薄な証拠。あんな女の行く末は、きっとひどいものでしょうよ!」とまで言い切っています。そして、悲しいことに、清少納言の行く末は紫式部が予言のとおり、悲惨なものでした。こうしたとがった言い方を見ても、相当負けん気の強い女性だったののでしょうね。〔MKK〕

         JC/紫式部 VS 清少納言

そうそう、『源氏物語』が「あはれ」の文学といわれるのに対して、清少納言の『枕草子』は「をかし」の文学といわれますね。わびしいから「をかし」を説いたとするには、ちょっと違和感を感じないでもないですが、それはあとのことにして、万華鏡のように多彩で、明るく奔放な世界を描いていますね。藤原道隆の長女に生まれ、一条天皇に入内していた中宮定子。その後宮には、選り抜かれた才媛たちが集まっていました。そのなかでもとび抜けた才(ざい)を発揮したのが清少納言。“香炉峯の雪”のエピソードが有名ですよね。
というわけで、MKKさんはどうやら清少納言ではなく、紫式部ビイキのご様子。はい、それならディベートといきましょうか。わたしは清少納言の側に立ちましょう。つい最近、NHKの大河ドラマで知ったのですが、〝せいしょうなごん〟ではなく〝せい・しょうなごん〟と呼ぶのが正しいようですね。

 ✦陰謀術策うずまく社会で

清少納言の後宮への出仕は28歳のとき。中宮定子は17歳でした。中宮定子のおぼえめでたく、彼女はこのサロンの花形として、華やかな女房生活をし、後宮全体をまとめつつ中心的に活躍していたようです。
隠微な嫉妬と対抗心と嫉妬もあって、紫式部からは「したり顔にいみじう侍りける人」と評され、好印象を与えていなかった模様。陰謀と策略の渦巻く、煩わしく複雑な当時の政治世界と対人関係のなかをしたたかに泳ぐ術を知っていた紫式部とは違い、清少納言は本質的に政治性のない人。物事にあまり拘泥しない、陰湿ではない、こころに裏オモテのない、底抜けにお人よしな、気性の美しい人。高度にリアルな人生観照をもつ紫式部のような大人の知恵を持ち合わせなかった女性でした。「したり顔」なんていわれる筋合いはなく、すてきじゃないですか、こんな女性。その無礼な汚いことば、そっくりそのまま紫式部にお返しすればよかったのに。もっとも、それをしないのが窈宨たる清少納言の奥ゆかしさであり自信でもあったのでしょうが。
               ☆
 紫式部は『源氏物語』の末摘花のモデルとされていますね。クモの巣の張る落ちぶれた宮家の姫とされ、青白い不健康な顔に赤い鼻という不美人。光源氏ともあろう人がどうしてあんなパッとしない女を…、とうわさされる女性。まあ、不美人ながら床じょうずで情がこまやかとされています。しかし、末摘花なら、まだしも控えめということを知っていますよね。紫さんにはそれがない。それくらいですから、どうやらこころの底に暗いコンプレックスをもっていたようで、嫉妬深く心根がどうもきれいじゃない。タチがわるいことに、今をときめく権力の側にいるので、傲慢不遜ときている。自分の目の届くところに見目麗わしい、評判のいい、すぐれた女性がいると知ると、もう我慢ができない、片っ端からこきおろしていたようです。ときどきわたしたちの周囲にもいるじゃなですか、高い教養を持ちながら、カサ高く可愛げのないそんなひとが。

 ✦いずれおとらぬ女流歌人たち
ひどいのにこと欠いて、和泉式部のことさえ「蓄積のないひと」とケチをつけている。「その和歌はパッと見たところはまあまあいいようだけれど、所詮は、たいした学問のないもののつくった、空っぽな歌」ですって! もう、偉そうに! 冗談じゃありません。この時代を生きていた女性のなかで和泉式部ほどモテた女性はほかにはおりません。みめうるわしく嬋娟たる女性で、情がこまやかで、学問の底も深く、魅力的で、上品な色香をただよわせ、このひとといっしょにいると、何かいいことがありそうな…。ともに語るに十分足るひとですよ。「ものおもへば沢のほたるもわが身よりあくがれいづるたま(魂)かとぞおもふ」なんて歌をもらったとしたら、たいがいの男はまいっちゃうでしょうね。「黒髪のみだれもしらずうちふせば まづかきやりし人ぞこひしき」、恋の絶唱です。人間にツヤがあるというか、相手を思いやるやさしくあたたかい愛があります。天性の愛の詩人といえないでしょうか。
天性の詩人ということでいえば、和泉式部以上にわたしが評価している女流歌人がいます。赤染衛門。長文になりましたのでその歌についてはここではふれませんが、なんとまあ、あきれたことに、紫式部はこの赤染衛門までくさしている! もう人格を疑うね、紫さん。
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あの時代の女性たちが今の時代に生きているとして、デートするとしたら、まあ、鼻っぱしが強く根性曲がりの紫さんじゃないですね。和泉式部か清少納言。わたしじゃあチト役不足だということはこの際別にして、うん、デートしてみたいね~。もっとも、清少納言は、時間ぎりぎりにやって来て、息せき食事をしてコーヒーを飲んで、ひとりでしゃべりたいだけしゃべって、「あっ、わたし用事思い出したわ。帰らなくっちゃ」と、さっさと帰ってしまうようなタイプ。才気ほとばしり、楽しい話題をたくさんもっていて退屈しないのですが、…ちょっとねぇ。その点、和泉式部はそうじゃない、こちらの気持ちをよくわかって、最後の最後までつきあってくれそう。いいなあ、こんなひと。抛っておけないよ、男なら。
               ☆
995年4月、道隆が死亡します。その際、権力は道隆の子の伊周(これちか)には移らず、仕掛けられた策謀により、定子の叔父(道隆の弟)にあたる藤原道長に渡られます。これにともない、中宮定子も禁中を追われる身となり、苦境におちいります。
菅原道真に対する藤原時平、藤原道隆・伊周に対する藤原道長。『大鏡』でとくに「才(ざえ)の人」の双璧とされた道真・伊周。そういう相手をうまうまと陥れた時平と道長は、表面は温雅ながら、じつは権謀術策に富む政略家の政敵。合理的な機略に富むタイプですね。こすっからく、権力をねらって陰に陽にいやがらせと圧迫をかけていた、わたしにはどうにもいけ好かない存在たる道長の、そのむすめ、のちの上東門院彰子に仕えたのが紫式部。百戦錬磨のすれっからしの、にくらしいほどしたたかな女、世に天才はわれ一人とでも思っているのでしょうか。その点、白痴のようにストーンと抜けたところもあって、プラス指向で、無垢な少女のように明るい清少納言て、ね、たまらなく可愛いじゃないですか。

 ✦おかきしきことのみ多かりき
定子の兄弟たる頼みの伊周の失脚につづき、1000年、定子は出産のあと24歳であわただしく死んでしまいます。清少納言も35歳で後宮を退くことに。こののち間もなく『枕草子』は成立していますね。NHKのドラマでは、それを書くよう促したのが紫式部(まひろ)となっていましたが、それは脚色上のサーヴィスで、そんなことはありえませんね。
激動の政治的情勢のなか、この作品のもつ静穏な明るさはちょっと異様かも知れません。ですが、滑稽なものを滑稽といい、おかしいもの(美しいもの)をおかしいといっている率直さ、直截さがこのひとの味でしょう。ですから、書いているものはちっともむずかしくありません。政治の暗い影などありません。紫式部に見る「大人の知恵」などぜんぜん持ち合わせなかったかのようにさえ見える、そのカラリとしたこだわりのなさは、清少納言の生来のものだったかも知れませんが、国語学者で『源氏物語』研究の第一人者の池田亀鑑博士は、『枕草子』というこの随想はもともと、中宮定子の遺子である一品宮脩子(ゆうし)という内親王の姫女に捧げるための、中宮定子賛美の書であったとしており、そういうこともあって暗いむずかしい部分は避け、「をかし」に終始したと考えていいではないでしょうか。
               ☆
 MKKさんが書いてくださっているように、彼女の晩年は不遇で悲惨なものでした。その落魄ぶりについては『今昔物語』や『古事談』に見られるそうですが、わたしはそれについてはよく知りません。ひとつだけ『古事談』で語られる伝説をご紹介します。
才媛の名をほしいままにした清少納言ですが、のちには零落してみすぼらしい廃屋に住んでいました。あるとき、若い殿上人たちがひとつの車に同乗してその家の前を通りかかります。見れば、いらかは破れ、土塀は崩れ、見る影もないていたらくぶり。「少納言無下ニコソナリニケレ」(あ~あ、清少納言もさんざんだなあ)と無遠慮に話している若者たち。それを清少納言が聞いていて、破れた簾(すだれ)をかき上げると、鬼形の女法師のような顔をつきだして「駿馬の骨をば買わずやありし」(死んだ馬の骨を買った人だってあるじゃないの!)と、中国の昔ばなし、燕王の故事を持ち出して言い返したとか。ここには「香炉峯の雪は?」と問われ、御簾を高くあげて中宮を感服させた清少納言の機転と高い教養を示すエピソードがもじられていますね。
どうもご退屈さまでした。紫式部を悪しざまに書きすぎましたが、どなたか、何を言うかと紫式部の側に立った反論を期待しています。



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Posted by 〔がの〕さん at 17:40│Comments(0)日本古典文学
 
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