2020年09月03日
J/草枕②夏目漱石
日本文学の旅
草 枕② 夏目漱石

■佳人の奇行
那古井の宿で、画家は那美の奇妙な振舞いに何べんか驚かされた。最初の晩のこと、時計は午前1時をすぎていた。なぜか眠れず、夢を見て寝返りをうっていた。ふとんをすりぬけ障子をあけると、月の光を浴び、海棠の花を背にしてぼう~っと立ち、もの静かに歌をうたう人影があった。画家はふとんにもどると、眠れそうもないままに、この変わった(非人情な)できごとをいくつかの俳句にしたためた。翌朝、ふろからあがって部屋にもどり、前夜、写生帖に書きつけておいた俳句を見ると、それぞれの句の下に、だれかのえんぴつの字で少しずつちがえた俳句が記されていた。
近所の床屋へひげを剃りに行った折、江戸っ子気質のおやじから、温泉宿の志保田家のこと、那美が〝キ印〟だということなどを聞かされた。この時代、こういう土地の女性としては非常に新しく、頭もよいうえに、女ながらに禅をかじる野狐禅(やこぜん)的なと
っぴさが、旧弊で素朴な山間のひとたちには気狂いに映ったのだろう。
夕暮れになると、ひとの気のない宿はひとしお静かになった。春宵の詩情は、また、芸術をめ
いるところへ、ぐる黙想へと画家の思念を導いた。そこへ、長い振り袖姿の那美がまた不可解なしぐさで現われた。中庭を隔てたむこうの欄干を何回となく、粛然と行ったりもどったりしているのだった。
をすっと
画家が、三味線の音に誘われて、幼時のころを回想しながら、湯槽でゆったりからだを温めているところへ、ふいに全裸の那美がしずかにはいってきた。湯けむりに包まれて立ちつくす女体は、ほの白くその輪郭を浮き立たせ、黒髪を雲のようになびかせ、背をすっと伸ばして、ことばにはならない幽玄の美を見せたのだった。
鏡が池に写生に来てみた。雑木林や熊笹が池をふちどり、萌え出たばかりの下草がうららかな春の日を受けていた。草のうえに寝そべりながら画想を練っているうち、ふと、那美の表情に何か一点、足りないものがあることに思い当たった。〝あわれ〟がないのだ。太陽が西の海に没す
つづけた。るときまで、画家はそこにすわりつづけていた。ふと池に目をやると、険しくとがった岩の頂きに人影を認めた。一瞬すると、その人影はひらりと身をひねって、むこうへ飛び降りた。那美だった。(つづく)

小天温泉那古井館、公式サイトより
草 枕② 夏目漱石

■佳人の奇行
那古井の宿で、画家は那美の奇妙な振舞いに何べんか驚かされた。最初の晩のこと、時計は午前1時をすぎていた。なぜか眠れず、夢を見て寝返りをうっていた。ふとんをすりぬけ障子をあけると、月の光を浴び、海棠の花を背にしてぼう~っと立ち、もの静かに歌をうたう人影があった。画家はふとんにもどると、眠れそうもないままに、この変わった(非人情な)できごとをいくつかの俳句にしたためた。翌朝、ふろからあがって部屋にもどり、前夜、写生帖に書きつけておいた俳句を見ると、それぞれの句の下に、だれかのえんぴつの字で少しずつちがえた俳句が記されていた。
近所の床屋へひげを剃りに行った折、江戸っ子気質のおやじから、温泉宿の志保田家のこと、那美が〝キ印〟だということなどを聞かされた。この時代、こういう土地の女性としては非常に新しく、頭もよいうえに、女ながらに禅をかじる野狐禅(やこぜん)的なと
っぴさが、旧弊で素朴な山間のひとたちには気狂いに映ったのだろう。
夕暮れになると、ひとの気のない宿はひとしお静かになった。春宵の詩情は、また、芸術をめ
いるところへ、ぐる黙想へと画家の思念を導いた。そこへ、長い振り袖姿の那美がまた不可解なしぐさで現われた。中庭を隔てたむこうの欄干を何回となく、粛然と行ったりもどったりしているのだった。
をすっと
画家が、三味線の音に誘われて、幼時のころを回想しながら、湯槽でゆったりからだを温めているところへ、ふいに全裸の那美がしずかにはいってきた。湯けむりに包まれて立ちつくす女体は、ほの白くその輪郭を浮き立たせ、黒髪を雲のようになびかせ、背をすっと伸ばして、ことばにはならない幽玄の美を見せたのだった。
鏡が池に写生に来てみた。雑木林や熊笹が池をふちどり、萌え出たばかりの下草がうららかな春の日を受けていた。草のうえに寝そべりながら画想を練っているうち、ふと、那美の表情に何か一点、足りないものがあることに思い当たった。〝あわれ〟がないのだ。太陽が西の海に没す
つづけた。るときまで、画家はそこにすわりつづけていた。ふと池に目をやると、険しくとがった岩の頂きに人影を認めた。一瞬すると、その人影はひらりと身をひねって、むこうへ飛び降りた。那美だった。(つづく)

小天温泉那古井館、公式サイトより
Posted by 〔がの〕さん at 11:04│Comments(0)
│名作鑑賞〔国内〕