2020年08月15日

J/草枕① 夏目漱石

日本文学の旅 
草 枕①  夏目漱石

J/草枕① 夏目漱石


■非人情の旅

 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」……春の山道をただ一人歩きながら、画家はそんな感懐にとらわれていた。日露戦争は激化の一途をたどり、次つぎに駆り出されていった若者の血が広大無辺の満州の野を生臭くしているころのことであった。三十歳の画家は現実的な人生の葛藤劇に耐えがたい嫌悪を感じていた。人びとの内部的真実にはかかわりなく、社会は暗黒へ暗黒へとすべりこんでいくのを見ていて、いい知れない不快感が湧いてきて、それがこんどの旅に駆り出し、感覚の陶酔のみを願う情緒的世界への逃亡へと画家を追いこんだのだった。

 やがて、道の左手にバケツを伏したような金峰山が見えてきた。もともと急ぐ旅ではないから、山すそのくねくねしたと道をぶらぶらと歩いた。一面に菜の花が見える。道は傾斜を早めてきた。山を越えるし那古井(なこい)――熊本市郊外の小天(おあま)温泉がモデル。有明海に面する小さな温泉場――に出る。この旅では、出会うひと出会うひとを能の趣向と能役者の演技に見立て、非人情の観点から客観的に見ていこうなどと思いをめぐらせながら、急坂を歩いていると、空模様があやしくなり、たちまち雨になった。雨具の用意もないので足を早めた。と、雨のたちこめた薄暗い空間から、のっと馬子が現われた。「ひと休みできるところはないだろうか」とたずねると、1.5キロほど先に茶屋があるという。雨筋はいよいよ太くなっていた。

J/草枕① 夏目漱石


 ぐしょ濡れになって峠の茶屋に飛び込んだ。数度声をかけてみたが、だれも出て来ない。土間のすみにいた鶏が、声に驚いてけたたましく騒いだ。中へ入ってしばらくいすに腰をおろしていると、ようやく奥からひとの足音がし、障子があいて老婆が出てきた。世阿弥の能舞台に登場する高砂(たかさご)に似た婆さんだった。雨の行き過ぎるのを待ちながら、お茶をすすり、濡れた衣類を火で乾かしているとき、那古井の温泉宿の娘,那美とい  う女性――前田案山子(かがし)の娘、卓子(つなこ)がモデル――の噂を耳にした。一度、城下に嫁いでいったが、夫の勤め先が破産したことなどによって、今は那古井にもどっているという。この地方には、ふたりの男に求愛され、迷いに迷ったあげく、川に身を投げた〝長良のおとめ〟の悲しい伝説があり、那美もそうした運命を背負っているのだと聞かされていた。(つづく)

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Posted by 〔がの〕さん at 14:00│Comments(0)名作鑑賞〔国内〕
 
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