2011年06月22日
J/浄瑠璃本に見る日本的な情死
近松門左衛門の浄瑠璃本に見る
日本的な情死
ことばを声に出して言ってみること、自分のことばにして言ってみることには、すばらしいカタルシスがあります。このところわたしは近松門左衛門全集を読んでいました。おもしろいですねぇ。「曽根崎心中」「鑓の権三重帷子」「心中天の網島」「堀川波鼓」「冥途の飛脚」「女殺油地獄」などなど。何がおもしろいかといえば、人形浄瑠璃で語るものとして書かれていますから、やたらことばの調子がいいこと。どうしても自分で声に出して言ってみたくなります。
「みをつくし 難波に咲くや此の花の 里は三筋に町の名も
佐渡と越後の合いの手を 通ふ千鳥の淡路島」(「冥途の飛脚」より)
といった調子。

>近松ものでは「女殺油地獄」が好きです。あの、おどろおどろした舞台の雰囲気。江戸時代、どうやってあの雰囲気を舞台演出したんだろう? と想像してしまいます。〔Dさん〕
『女殺油地獄』、わたしはその舞台は見たことがありませんが、読むかぎりで、ものすごいやりきれなさ、切なさを覚えましたね。きわめて現代的とも云えるように思うんです。与兵衛という油屋「河内屋」を継ぐ次男坊、これがとんでもないワルです。遊女の小菊のところに入りびたっている放蕩無頼、手のつけられない極道ものです。太兵衛という長男もいるのですが、こちらは家を出て同じ油屋をかたくやっている律儀な働きもの。与兵衛がどうして放蕩に走るようになったか、と云えば、母親お沢の盲目的な愛情というか、可愛いがりすぎです。極道ものと云っても老舗の大事な跡継ぎ。欲しいといえば何でも与えて育ててきました。父親の徳兵衛は、実父の先代徳兵衛が死んだあと、番頭あがりで後夫に入った養父で、先代の手前や周囲の目をはばかって、云いたいことも云えず、不良青年の無頼を見て見ぬふりをするしかない弱い立場にありました。J.J.ルソーの「エミール」にあることば、「子どもをダメにするのはいとも簡単だ。欲しいものがあればハイハイとすぐ与えるようにすればよい」という、まさにそのダメ男の申し子の典型のようなものですね。妹のおかちに聟をとろうという話が起こって、いよいよ与兵衛は荒れます。
そして、ちょっと理解できないのは、なぜお吉(よし)がこのバカなハナつまみものに殺されねばならないのか、ということ。おなじ大阪・本天満町の斜め向かいで同業の油屋を営む「豊島屋」の美しい若妻。女ざかりの27歳。町内きっての美人であり、3人の子どもをもつ、無邪気なほどに明るい、まわりの受けのいい、小商人の律儀な妻です。だれにでも親切で、気さくに声をかけます。屋形船に乗っての野崎参りの途中、茶屋でひと休みしているところを、悪い色仲間といっしょの与兵衛に出会います。からかい半分でしょうか、お愛想でしょうか、「あら、きょうは小菊さんといっしょじゃないんですか」。それ以上には関係のないお吉の店「豊島屋」に行って、女郎を身請けするカネを貸してくれと執拗にせがむ与兵衛。亭主の七左衛門は出かけていて留守。主人に相談もなくそんな大金を貸すなんてできない、とお吉がぴしゃりと断ると、ブスリと刃物で刺して、集金してきたばかりの大金をごっそり棚の上から奪って逃走する。
お吉にしてみれば、殺される何の筋合いもないのに、カネ欲しさ、女欲しさに狂う与太ものに刺し殺される。どうして…? 理由を探れば、親切がアダになって、というしかない。たしかに、喧嘩でドロまみれの与兵衛を見て、帯を解かせ着物のドロを拭いてやったという親切はあった。周囲から白眼視されているワルにとっては、そうしてくれるお吉のすがたは慈悲の女神のように思えていたかも知れない。ワルには過ぎたる親切だったということか。
しかし、お吉殺しの犯人が、天井のネズミが暴れたことによって発覚した、という展開には、これまた驚かされました。
>「曽根崎心中」でしたでしょうか? これから心中しよう、というとき、男の父親を見かけ、心中相手の女がその父親の落とし紙をこの世の思い出に、と大切そうに懐中するシーンはそのせつなさに涙が出そうになります。〔Dさん〕
そうそう、遊女梅川と忠兵衛の、縄目を逃れての死の道行きで、老父が巾着から銀子一枚をとりだして梅川に渡すシーンですね。1日でも多く逃亡して生き延びよとの路銀だが、それでは世間が立たぬ、大坂の義理は欠かせない、と、梅川の親切に対するお礼として手渡す。
覚悟を決め、この世の見納めに、忠兵衛は梅川をつれて生まれ在所の村にやって来ます。忠兵衛は男女双生児の片割れで、この村から大坂の飛脚問屋亀屋にもらわれて行った養子でした。名うての美妓の梅川と相思相愛のよしみができ、ひとから預かった大事な金を盗んで追われる身に。帰郷して一目なりとも親に会ってから死にたいが、ここにもすっかり追求の手は伸びていて、親子が会うことは許されない。遠いものかげから実父の孫右衛門を見れば、老いて足はよろよろ、高下駄の鼻緒を切ってよこざまに泥田へ転げこんでしまう。梅川が思わず飛び出して、すぐさま抱き起こし、裾をしぼって、腰と膝を撫でさする。鼻緒はわしがすげようと、ふところから紙をとりだす父親。梅川は、よい紙がある、こちらをひねってあげしょうと、裂いて見せる。息子の嫁としてのせめてもの親孝行。その美しい手もとを見ながら、孫右衛門は、やさしいこの見知らぬ上臈がだれであるかを察する。老いた実父の出した紙は、唯一の形見として梅川がもらい受ける。このあと間もなく、忠兵衛・梅川は代官所の捕手の縄にかかるのですけれど…。
どちらの作も実際にあった事件にもとづき、近松の手を経てつくられた物語だそうですが、とにかくすごい創作家ですねぇ、近松という人は。酸鼻な心中ものの類型をつらねるもの、と思ってきましたが、どうして、どうして。心中ものというよりは、すっきりとした人情もの、心理劇につくりなしていて心をうち、味としては、どちらかというと、いま評判の「蝉しぐれ」などの藤沢周平さんや、山本周五郎の下級武士もののの作品に通じるような…。ずうっとわき目もふらず、息もできないほどに緊張し集中して読むことになります。それは、やはり、ことばの調子のよさに尽きるでしょうか。
「世を忍ぶ心の氷三百両、身も懐も冷ゆる夜に、越後屋に走りつき、
内を覘(のぞ)けば八右衛門、横座を占めて我が評判、はつと驚き立ち聞きす、
二階には梅川が、心を澄ます壁に耳、濡るゝぞ仇の始めなり」
(「冥途の飛脚」より)
この八右衛門という腹黒い友人のワナに忠兵衛はまんまとはめられ、追われる身になるわけ。
>近松ものは、国立劇場で歌舞伎鑑賞会の企画の中で取り上げられたものを見たことがあるだけです。「女殺油地獄」では、舞台の上じゅうにもれた油のなかをすべっては転び、転んでは追いかけ、の、本当におどろおどろしい演出でした。 〔Dさん〕
はは~、Dさんがご覧になったのは、原作とはかなりちがうものになっていたかもしれませんね、喜劇的要素をたっぷりと盛り込んで。これは晩年の傑作とされる作品で、他にはないリアルな殺人の場面があり、酸鼻なまでの残酷さを感じさせられるものでした。もっとも近松は歌舞伎狂言として書いたものもいくつかあり、そうした味付けで舞台をつくったのかもしれません。
井原西鶴、近松門左衛門——。こうして改めて考えてみると、その強靭な創作力に驚かされるんですね。
西鶴が生まれたのが1642年、少しおくれて近松が1653年に生まれています。高校で使った歴史年表を取り出して見てみると、この人たちが活躍したのは、徳川五代将軍綱吉(1646~1709年)、あの“おイヌさま”で有名な、評判あまりよろしくない将軍が治めていたころですね。この「生類哀れみの令」にかぎらず、タガの弛んだ綱紀を徹底的に粛正しようとした時代でした。どうも、“美しい(属)国”をいうかつての内閣がやろうとしている教育改革に一脈似ているような…。「勘定吟味役」という怖い権力が置かれ、人びとは日夜それに脅かされていたようです。
人びとは古臭い儒教道徳できびしく抑圧され、封建的な身分制度、家庭制度を押しつけられて、窮屈でたまらなかったはず。自由恋愛なんてとんでもありません。なかんづく、不義密通となれば、市中ひきまわしのうえ、ハリツケのさらしものです。しかしねぇ、人びとはそんなには禁欲生活に耐えられるものではありません。ナマの人間ですから。近松の作品はいずれも実際にあった悲劇的な事件にもとづいて書かれているそうですが、命を賭けて恋にわが身を投げて燃やした男と女、そして恋を成就し、果かなく消えていった、自分のこころにウソいつわりなく生きぬいた男と女を描きました。パッと生きパッと消えた男女を描くことによって、西鶴も近松も、命がけでその非人間的な社会制度と時代状況に抗議したんですね。そこがまたスゴイ!
日本的な情死
ことばを声に出して言ってみること、自分のことばにして言ってみることには、すばらしいカタルシスがあります。このところわたしは近松門左衛門全集を読んでいました。おもしろいですねぇ。「曽根崎心中」「鑓の権三重帷子」「心中天の網島」「堀川波鼓」「冥途の飛脚」「女殺油地獄」などなど。何がおもしろいかといえば、人形浄瑠璃で語るものとして書かれていますから、やたらことばの調子がいいこと。どうしても自分で声に出して言ってみたくなります。
「みをつくし 難波に咲くや此の花の 里は三筋に町の名も
佐渡と越後の合いの手を 通ふ千鳥の淡路島」(「冥途の飛脚」より)
といった調子。
>近松ものでは「女殺油地獄」が好きです。あの、おどろおどろした舞台の雰囲気。江戸時代、どうやってあの雰囲気を舞台演出したんだろう? と想像してしまいます。〔Dさん〕
『女殺油地獄』、わたしはその舞台は見たことがありませんが、読むかぎりで、ものすごいやりきれなさ、切なさを覚えましたね。きわめて現代的とも云えるように思うんです。与兵衛という油屋「河内屋」を継ぐ次男坊、これがとんでもないワルです。遊女の小菊のところに入りびたっている放蕩無頼、手のつけられない極道ものです。太兵衛という長男もいるのですが、こちらは家を出て同じ油屋をかたくやっている律儀な働きもの。与兵衛がどうして放蕩に走るようになったか、と云えば、母親お沢の盲目的な愛情というか、可愛いがりすぎです。極道ものと云っても老舗の大事な跡継ぎ。欲しいといえば何でも与えて育ててきました。父親の徳兵衛は、実父の先代徳兵衛が死んだあと、番頭あがりで後夫に入った養父で、先代の手前や周囲の目をはばかって、云いたいことも云えず、不良青年の無頼を見て見ぬふりをするしかない弱い立場にありました。J.J.ルソーの「エミール」にあることば、「子どもをダメにするのはいとも簡単だ。欲しいものがあればハイハイとすぐ与えるようにすればよい」という、まさにそのダメ男の申し子の典型のようなものですね。妹のおかちに聟をとろうという話が起こって、いよいよ与兵衛は荒れます。
そして、ちょっと理解できないのは、なぜお吉(よし)がこのバカなハナつまみものに殺されねばならないのか、ということ。おなじ大阪・本天満町の斜め向かいで同業の油屋を営む「豊島屋」の美しい若妻。女ざかりの27歳。町内きっての美人であり、3人の子どもをもつ、無邪気なほどに明るい、まわりの受けのいい、小商人の律儀な妻です。だれにでも親切で、気さくに声をかけます。屋形船に乗っての野崎参りの途中、茶屋でひと休みしているところを、悪い色仲間といっしょの与兵衛に出会います。からかい半分でしょうか、お愛想でしょうか、「あら、きょうは小菊さんといっしょじゃないんですか」。それ以上には関係のないお吉の店「豊島屋」に行って、女郎を身請けするカネを貸してくれと執拗にせがむ与兵衛。亭主の七左衛門は出かけていて留守。主人に相談もなくそんな大金を貸すなんてできない、とお吉がぴしゃりと断ると、ブスリと刃物で刺して、集金してきたばかりの大金をごっそり棚の上から奪って逃走する。
お吉にしてみれば、殺される何の筋合いもないのに、カネ欲しさ、女欲しさに狂う与太ものに刺し殺される。どうして…? 理由を探れば、親切がアダになって、というしかない。たしかに、喧嘩でドロまみれの与兵衛を見て、帯を解かせ着物のドロを拭いてやったという親切はあった。周囲から白眼視されているワルにとっては、そうしてくれるお吉のすがたは慈悲の女神のように思えていたかも知れない。ワルには過ぎたる親切だったということか。
しかし、お吉殺しの犯人が、天井のネズミが暴れたことによって発覚した、という展開には、これまた驚かされました。
>「曽根崎心中」でしたでしょうか? これから心中しよう、というとき、男の父親を見かけ、心中相手の女がその父親の落とし紙をこの世の思い出に、と大切そうに懐中するシーンはそのせつなさに涙が出そうになります。〔Dさん〕
そうそう、遊女梅川と忠兵衛の、縄目を逃れての死の道行きで、老父が巾着から銀子一枚をとりだして梅川に渡すシーンですね。1日でも多く逃亡して生き延びよとの路銀だが、それでは世間が立たぬ、大坂の義理は欠かせない、と、梅川の親切に対するお礼として手渡す。
覚悟を決め、この世の見納めに、忠兵衛は梅川をつれて生まれ在所の村にやって来ます。忠兵衛は男女双生児の片割れで、この村から大坂の飛脚問屋亀屋にもらわれて行った養子でした。名うての美妓の梅川と相思相愛のよしみができ、ひとから預かった大事な金を盗んで追われる身に。帰郷して一目なりとも親に会ってから死にたいが、ここにもすっかり追求の手は伸びていて、親子が会うことは許されない。遠いものかげから実父の孫右衛門を見れば、老いて足はよろよろ、高下駄の鼻緒を切ってよこざまに泥田へ転げこんでしまう。梅川が思わず飛び出して、すぐさま抱き起こし、裾をしぼって、腰と膝を撫でさする。鼻緒はわしがすげようと、ふところから紙をとりだす父親。梅川は、よい紙がある、こちらをひねってあげしょうと、裂いて見せる。息子の嫁としてのせめてもの親孝行。その美しい手もとを見ながら、孫右衛門は、やさしいこの見知らぬ上臈がだれであるかを察する。老いた実父の出した紙は、唯一の形見として梅川がもらい受ける。このあと間もなく、忠兵衛・梅川は代官所の捕手の縄にかかるのですけれど…。
どちらの作も実際にあった事件にもとづき、近松の手を経てつくられた物語だそうですが、とにかくすごい創作家ですねぇ、近松という人は。酸鼻な心中ものの類型をつらねるもの、と思ってきましたが、どうして、どうして。心中ものというよりは、すっきりとした人情もの、心理劇につくりなしていて心をうち、味としては、どちらかというと、いま評判の「蝉しぐれ」などの藤沢周平さんや、山本周五郎の下級武士もののの作品に通じるような…。ずうっとわき目もふらず、息もできないほどに緊張し集中して読むことになります。それは、やはり、ことばの調子のよさに尽きるでしょうか。
「世を忍ぶ心の氷三百両、身も懐も冷ゆる夜に、越後屋に走りつき、
内を覘(のぞ)けば八右衛門、横座を占めて我が評判、はつと驚き立ち聞きす、
二階には梅川が、心を澄ます壁に耳、濡るゝぞ仇の始めなり」
(「冥途の飛脚」より)
この八右衛門という腹黒い友人のワナに忠兵衛はまんまとはめられ、追われる身になるわけ。
>近松ものは、国立劇場で歌舞伎鑑賞会の企画の中で取り上げられたものを見たことがあるだけです。「女殺油地獄」では、舞台の上じゅうにもれた油のなかをすべっては転び、転んでは追いかけ、の、本当におどろおどろしい演出でした。 〔Dさん〕
はは~、Dさんがご覧になったのは、原作とはかなりちがうものになっていたかもしれませんね、喜劇的要素をたっぷりと盛り込んで。これは晩年の傑作とされる作品で、他にはないリアルな殺人の場面があり、酸鼻なまでの残酷さを感じさせられるものでした。もっとも近松は歌舞伎狂言として書いたものもいくつかあり、そうした味付けで舞台をつくったのかもしれません。
井原西鶴、近松門左衛門——。こうして改めて考えてみると、その強靭な創作力に驚かされるんですね。
西鶴が生まれたのが1642年、少しおくれて近松が1653年に生まれています。高校で使った歴史年表を取り出して見てみると、この人たちが活躍したのは、徳川五代将軍綱吉(1646~1709年)、あの“おイヌさま”で有名な、評判あまりよろしくない将軍が治めていたころですね。この「生類哀れみの令」にかぎらず、タガの弛んだ綱紀を徹底的に粛正しようとした時代でした。どうも、“美しい(属)国”をいうかつての内閣がやろうとしている教育改革に一脈似ているような…。「勘定吟味役」という怖い権力が置かれ、人びとは日夜それに脅かされていたようです。
人びとは古臭い儒教道徳できびしく抑圧され、封建的な身分制度、家庭制度を押しつけられて、窮屈でたまらなかったはず。自由恋愛なんてとんでもありません。なかんづく、不義密通となれば、市中ひきまわしのうえ、ハリツケのさらしものです。しかしねぇ、人びとはそんなには禁欲生活に耐えられるものではありません。ナマの人間ですから。近松の作品はいずれも実際にあった悲劇的な事件にもとづいて書かれているそうですが、命を賭けて恋にわが身を投げて燃やした男と女、そして恋を成就し、果かなく消えていった、自分のこころにウソいつわりなく生きぬいた男と女を描きました。パッと生きパッと消えた男女を描くことによって、西鶴も近松も、命がけでその非人間的な社会制度と時代状況に抗議したんですね。そこがまたスゴイ!
Posted by 〔がの〕さん at 00:30│Comments(0)
│名作鑑賞〔国内〕