2009年03月18日

F/ペルソナ(影/仮面)と折り合いをつけ、自制しつつ…

 「ジーキル博士とハイド氏」
F/ペルソナ(影/仮面)と折り合いをつけ、自制しつつ…

ほんとうはあまり本意ではないけれど、
その場の空気をとらえて自分を抑え、折り合いをつける…。
一つことにずうっと魂を詰めてかかわり、疲れもピーク。
すべてをワッと放り出して解放されたいという誘惑。
(学究生活に疲れたジーキル博士が、薬液の力を借りて
放埓の大海、悪意の世界へ飛び込んでいったように)
好むと好まざるとにかかわらず、そんなことは
ふだんの生活のなかで、いつでもやっていること。
ほんとうの自分の気持ちとひとつでないときのほうが
ずっとずっと多いかもしれないわたしたちの社会生活。
だからといって、それを「二重人格」「多重人格」と
ことさらに呼ぶことはない。
作者は、他と自分を合わせるのはけっこうだが、
合わせてばかりいると自分のなかに醜い怪物を生む、
ハイドのような畸形の自分が勢いを得て暴れだす、
モラル正しいだけじゃ、生きていけないよ、
きれいな玄関と床の間だけじゃ生活していけないよ――、
そう言いたいのだろうか。「この肉体、じつは
蜉蝣(かげろう)のごとく実体なく、
狭霧(さぎり)のごとくはかないものだから」と。

間もなく始まる裁判員制度において、有罪か無罪か、
刑の軽重を問われるとき、その「多重人格」、
すなわち「解離性同一性障害」の検証が
大きな判断の基準になることが想定される。
薬液によって性格も容貌も一変させる実験に成功した
ジーキル博士のケースを俟つまでもなく、
わたしたちのなかには、いつももう一人のわたし、
影としてのペルソナが生きている。
その負の部分とどう折り合いをつけていくか、
作者はそこをわたしたちに問いかけているようだ。


同じカテゴリー(名作鑑賞〔海外〕)の記事画像
F/スタインベック「二十日ネズミと人間」
F/S.モームの憂鬱
F/「カルメン」メリメ
F/貧しき人びと ドストエフスキー
F/静かなるドン ショーロホフ
F/「カモメのジョナサン」R.バック
同じカテゴリー(名作鑑賞〔海外〕)の記事
 F/スタインベック「二十日ネズミと人間」 (2025-01-23 16:57)
 F/S.モームの憂鬱 (2024-11-16 00:24)
 F/「カルメン」メリメ (2024-05-05 03:07)
 F/貧しき人びと ドストエフスキー (2024-02-25 03:31)
 F/静かなるドン ショーロホフ (2023-12-25 14:14)
 F/「カモメのジョナサン」R.バック (2023-07-17 16:45)

Posted by 〔がの〕さん at 21:26│Comments(0)名作鑑賞〔海外〕
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
F/ペルソナ(影/仮面)と折り合いをつけ、自制しつつ…
    コメント(0)