2012年07月19日

☆読書は学びの原郷〔3〕

☆読書は学びの原郷〔3〕
読書はあらゆる学びの原郷

<2008年10月、読書週間に因んでNHKラジオ第一は「ラジオ井戸端会議」で一週間かけて「読書、しませんか」をテーマに放送。わたしも読書会の主宰者として生放送出演し、その最終日のまとめにはエッセイストの青木奈緒さん(幸田文さんの孫、幸田露伴の曾孫)をゲストに招いて1時間にわたりトークを。おもしろいトークになりましたが、限られた時間のなかで語り合えるのはごくわずかにことのみ。腹ふくるる思いのままでは精神衛生上よろしくない、というわけで、その拾遺集の一部を少女との対話にして3回に分けて…>


NHKラジオ「名作を読み直す」
  ――言い残したことなど〔その3〕


小夜:おくればせながら、おとうさん、おめでとうございます!(パチパチパチ…)
がの:うん…? あ、あれね。やめてくださいよ、恥ずかしいから。
小夜:福祉功労者の一人として、11月30日(日)、市から表彰されました。考えてみれば、小夜が生まれるより以前から、地域福祉方面のこと、なさって来られたんですね。
がの:そう。いまはそれだけじゃなく、青少年指導員として中高生のさまざまな問題にも頭をぶつけています。でも、いいですよ、それは。
小夜:さっきの電話は区長さんからでしたね。ずいぶん長い電話。なんですって、区長さん。
がの:うん、あのね、このあいだの市の福祉大会につづくフォーラムで記念講演をしたじゃないですか。「誰もが支え手、だれもが受け手の生活環境づくり」と題し、ボランティア活動のほうから新しい地域活動の方向を探るとして話しました。あれ、案外反響が大きかったんですって。で、区長さん、そのことで何かに書きたいんだそうです。区報かな。それでね、あのときのお話のポイントをもう一度聞かせてほしい、って。
小夜:でも、おとうさんは、あの大きな大会が終わって、やっと、やれやれ…、ですね。それにしても、おとうさんの講演やレポート、テレビ(ケーブル)やラジオは、このところ、福祉とか防災のことばかりでした。小学校低学年の英語導入のこともありましたけれど。以前はよく、サクラの季節になれば西行のサクラの歌とか、万葉植物のこととか、FMで毎年のように放送していたのに…。
がの:そうそう。すっかり文学ばなれ、古典ばなれでした。NHKラジオで文学のこと、読書のことを話すなんて、久しぶりでした。
小夜:だからなのね、おとうさんがご機嫌ナナメだったのは。おはなししたいことがいっぱいあるのに、時間だからとプツンとやられてしまって。
がの:もう、あのとき何を話したかったのかも忘れてしまいましたが、今年も残すところあとわずか、一応、ここでまとめてケリをつけましょうかね。
小夜:もう一度作品を読み返す、その意味は? 読書会というグループ活動を長くつづけていくコツは? それに、声に出して読むことについて…。
がの:おつきあいしてもらってありがたいのですが、失礼だよなあ、小夜ちゃんは。おとうさんがいっしょけんめいおはなししているのに、このあいだなんか、クークー眠ってしまうんだから。
小夜:ペコン! ごめんなさい。だって、おとうさんのおはなし、長いんですもの。きょうはサッといきましょうね、サッと。


――名作をもう一度読み返すことに何を求めておいでですか?
 小さいとき、若いときに通った道を、10年後、20年後、30年後に改めて歩いてみる。以前見たものがそのまま残っているのを見るのも楽しいし、すっかり印象が変わってしまった風景に出会うのも、また楽しい。少なくとも、そこに足を向けてみることなしには、その楽しさは得られませんよね。そんな、つつましい楽しみのためではないでしょうか。
 わたしたちの世代は、大学に入るなりすぐ学生運動の渦中に投げ込まれました。はげしく闘って、そして挫折して、傷ついて、その虚脱感のなかで、ある人はマージャンに走りました。アルバイトに走った人、演劇や映画にのめりこんでいった人も。で、わたしの周辺にいた人たちは、とりつかれたように本を読みました。今はほとんど読まれることもないようですが、当時は実存主義がもてはやされる時代でして、ニーチェのニヒリズムから、キェルケゴール、ハイデッガー、ヤスパースといった実存主義哲学、サルトル、カミュ、カフカ、ボーヴォワール、アンドレ・マルロー、メルロー・ポンティ、シモーヌ・ヴェイユ、ジョルジュ・バタイユらの実存主義文学、日本のその系統の埴谷雄高、椎名麟三、大江健三郎、倉橋由美子らの作品を争うようにして読みました。ええ、まるでそれがファッションでもあるかのように、手あたりしだいでした。ほかの仲間に先を越されて侮られるのが悔しいから、一歩でも先んじよう、1冊でも多く、と。

 そんな読み方が何のタシにもならないことは言うまでもありません。一夜漬けのお勉強が、試験のあとで何も残さないのと同じこと。専攻していた国文学のほうはさっぱりお留守という次第でした。で、ろくに自分の勉強はしないまま社会人生活へ。能率主義、成果主義の車輪に組み敷かれ、目の前の仕事に追い立てられているなかで、かつて読んできた本が話題になるようなことはありません。悲しいかな、何を読んだのか、記憶は影さえ残さず霧のかなたです。それだけの粗雑な読み方しかして来なかったということですね。

 読むとはどういうことでしょうか。読むとは、読んで考えるということです。自分の感性で問題を捉えて考えるということ。その場で必要な知識を得るためなら、知るだけでいいのなら、テレビを見るほうがいい、インターネットを見るほうがいい。そのほうが情報量は多い。すなわち、たくさん読んでは来たけれど、考えることはして来なかったんですね。

 で、はるかな星霜を経て、埃まみれになった本を書棚の片隅から引っ張り出して、今度はゆっくりともう一度読む。読書会はそういう機会であり、ほんとうにありがたいと思います。
 その本はどれも、すっかり黄ばんで活字もかすれて読みにくい。古本特有のいやな臭いがすることも。ですが、手垢の染みたその本を開き、赤鉛筆、青鉛筆で引かれた傍線、とがった鉛筆の先で細かに書き込まれたメモなどを見ると、気恥ずかしさとともに、言うに言われぬなつかしさがこころを満たしてくれます。おもしろいのは、読み直して、大事な箇所や気に入った表現のところに改めて傍線を引くとすると、昔のところとはぜんぜん違う箇所だったりする。そのズレこそがわたしの年輪なんでしょうか、若いときの寡聞ながらも真剣で純粋だった自分のすがたが見えてきます。また、家庭をもち、子を持ち、失敗を繰り返し、現実の波に揉まれてスレっからしになったあとの、疲れの見える今の自分のすがたが見えて来る。ですから、名作の再読というのは、青春の日々を振り返り、もう一度、自分を探る旅をしているようなものではないでしょうか。

 いい旅をするためには、ホンモノでなければなりません。すぐれたホンモノを見ること。読むことは読んで考えることだと言いました。では(ホンモノを)「見る」とはどういうことか。目の前にあるものをよく見る、目を近づけてじっと観察する、正確に捉える、…このごろはそういうものではなくなってきたように自分では感じています。「見る」とは、目に見えないものを見ること、目には見えないけれど確かにそこにあるものを見ること。そんな読み方、そんな見方ができると、名作はいっそう輝くと思いますね。

☆読書は学びの原郷〔3〕


――読書(読書会)を長くつづけるポイントは何でしょうか。
 何でもそうでしょうが、いい仲間がいることが一つの要件。そして、無理があってはつづきません。楽しくなければつづいていきません。読書においても、こころに楽しくひびくものがなければ、すぐに途絶えてしまいます。何が楽しいか、どんなことにこころの鐘は鳴るのか、それは人それぞれ。ですが、読み継いでいくうち、おのずからルートがつくられ、広いところにつながっていきます。先回、ドーデの「最後の授業」と山本有三の「米百俵」とのつながりを一例として見ましたね。「国破れて山河あり 城春にして草木深し…」(杜甫「春望」)で、フランス語による最後の授業で母国語を守ることの大切さを子どもたちに伝えた先生と、占領軍から日本語を守り抜いた山本有三の気骨。とりわけ、身を投げ出して「フランス万歳!」をいい、捕縛されて教壇から消えた先生の誠実さは、ヒルトンの「チップス先生さようなら」の、一人の老教師の愛情あふれる子どもとの向かい合い方にリンクしていきます。教育の本質を問う読書になっていきますね。どこをテーマにして読むか、そこがはっきりしていると、作品世界がくっきりしてくるとともに、どんどん広がりが生まれてきます。

 近い例で、11月にはヘッセの「クヌルプ」を読みました。非人間的な戦争や人間性を圧殺する社会機構の“車輪”(「車輪の下」)から脱して自由に生きるとはどういうことか。主人公の流浪と漂泊の人生に神はどんな意味を与えたのか。「スガンさんのやぎ」の自由の場合、良寛さん、山頭火、寅さんの自由の場合とどこがどう違うのか、…どんどん広がりをもってテーマがあらわれてきますね。

 今月はまた、ユーゴーの「死刑囚最後の日」です。フランス文学史上指折りの傑作とされる「レ・ミゼラブル」の下敷きになっている中編小説。自由の問題とも無関係ではありませんが、日本では来年の5月から裁判員制度がスタートします。法律家でもないわたしたち個人が一人の罪人をどう裁けるのか、神ならぬ身でありながら人に死刑を求めることなんてできるのか、考えれば考えるほど怖いことになってきました。また、ずうっと引っかかりながら一歩も前進しない死刑をめぐる論議。日本には残る死刑制度。犯罪被害者はますます犯罪者に極刑を求める傾向にあります。無関心ではいられない、突きつけられているそうした課題を、このあと、どんなことになりますか、わたしたちなりの市民感覚で考え合い、話し合ってみたいと思っています。

小夜:おとうさん…。
がの:長い、というんでしょ! はい、おしまいにしますね。もうひとつ、「声に出して読むことについて」は、もう、みなさんには自明のこと、語る必要はありませんので。五感を働かせた体験があってこそ、ことばとイメージがひとつになり、こころのなかできれいにひびきあう、ということですよね。はい、ご清聴ありがとうございました。
小夜:よかった。おとうさんは、これで胸のつっかえがとれ、こころおきなく新年が迎えられそうですね。読むというのは、読んで考えること、見るとは、目には見えないけれど確かにそこにあるものを見ること。読書はファッションでもなければ、広い知識を得るためのものでもないのですね。
がの:そうですよ。トクをするために読む、知ったかぶりをするために本を読むなら、それは物を獲りあう世界と同じ。物で栄え、物で滅びる世界。つまらない争いの絶えることなき世界です。そういうのは、もういい。
小夜:来年は小夜も、ホンモノの本を読んで、じっくり考えるようにしますね。

【To: drty さん】
たまたま機会を与えられて、日ごろ考えている (ほんとうは、あまり考えていない)「読書」について、その一端をここにまとめることができましたこと、幸運と喜んでおります。
 「読む」とは「読んで考えること」、「見る」とは「見えないもの、見えないけれどそこに確かにあるものを見ること」であり、知識をふやすこと、物を獲るためのものではない、と書いたばかり。
 で、これはまた、なんという符合か、きょう12月16日の朝刊(朝日新聞)の1面トップに、「基本は国語力」という大きなヘッドラインで、先におこなわれた全国学力調査のことが出ていました。その結果を文部科学省の専門家会議が細かに分析しておりますね。いささかこれには疑問も感じてはおりますが、国語力を重視したことで算数・数学の学力も向上した、などは末梢的なこととして、高学力層がふえた学校では、自分で考える学習に取り組む姿勢が養われてきたことを指摘しています。国語で「書く習慣をつける」取り組み、「読む習慣をつける」取り組みによって高学力層がぐんとふえたことを明らかにしています。与えられたものを受容するだけでなく、自分のアタマと感性で考えること。

 学力をつけるために読書をせよ、などと子どもたちにいうつもりはありませんが、やはり、すぐれた作品にふれるごとに、ひとは強くなっていく、生きる力を強くしていくのだと思いますね。



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Posted by 〔がの〕さん at 16:35│Comments(2)その他
この記事へのコメント
こんにちは。

記事中に出てくる「最後の授業」
これって、歴史的経緯や当時の情勢を考慮すると、まったく逆の感想が出てきます。
アルザス地方は17世紀からフランスとドイツで領地の取り合いしてたようなトコロで、そこの母国語はドイツ語方言のアルザス語です。(ドイツ語にフランスの単語が加わったような感じ)
つまり、フランス語は当時の占領国フランスが同化政策の一環として押しつけてただけ…とも取れます。

例えるならば、第二次大戦の終戦時に朝鮮半島とか台湾の学校で日本語教師が「日本万歳!」と言うようなものでしょうか。

小説が発表されたフランスで、当時、反独感情が高まっていたというのも、もちろん関係あるのでしょうけど。
Posted by えまのん at 2012年10月17日 16:20
なるほど。そうした歴史的背景もあったのですか。ご指摘ありがとうございます。そのような事情も踏まえて読み解きつつ、読書会などでは、すぐれた文学的作品として鑑賞し味読していければ、と思います。
Posted by 〔がの〕さん at 2012年10月17日 20:55
 
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    コメント(2)