2012年06月06日
☆読書は学びの原郷〔1〕
読書はあらゆる学びの原郷
<2008年10月、読書週間に因んでNHKラジオ第一は「ラジオ井戸端会議」で一週間かけて「読書、しませんか」をテーマに放送。わたしも読書会の主宰者として生放送出演し、その最終日のまとめにはエッセイストの青木奈緒さん(幸田文さんの孫、幸田露伴の曾孫)をゲストに招いて1時間にわたりトークを。おもしろいトークになりましたが、限られた時間のなかで語り合えるのはごくわずかなことのみ。腹ふくるる思いのままでは精神衛生上よろしくない、というわけで、その拾遺集の一部を少女との対話にして3回に分けて…>
NHKラジオ「名作を読み直す」――言い残したことなど〔その1〕
小夜:おとうさんは、なぜ、テレビやラジオに出るたび、不機嫌になるのですか。
がの:えっ、そんなに不機嫌そうでしたか。
小夜:そうよ、傍から声をかけるのがちょっと怖いくらい。
がの:そう、それは悪かったですね。でも、ちょっとひどいとは思いませんか。いろいろ言いたいことがあったのに、何も言えないでいるうち、プツン! ですよ。乱暴です。いつもいつもそうなんだから。
小夜:仕方ないじゃないですか、テレビもラジオも秒単位でプログラムされているのですから。それに、おとうさんのために番組が組まれているんじゃないですからね。
がの:それにしたって、ほら、あのときは風邪をひいていて、鼻汁はダラダラ、ちょっと話すと声がかすれてしまう状態。まずいな、ということで朝一番にお医者にいって、「なんとかしてくださいよ」と泣きつき、これなら、といういちばんいい薬をもらって服んで、それから午後ずうっと待機してくれといわれていて、外出もできない。まず、ディレクターとさんざん話して、そのあと、アナウンサーとも。
小夜:アナウンサーのおねえさんと機嫌よく話していたそうじゃないですか。
がの:あ、あのひとはおとうさんと同郷なの。大学は名古屋のほうだったと思うけど。
小夜:それに、そのあとの青木奈緒さん。ずいぶん長話でしたよ、20分、いや、30分かな。
がの:あの人のおばあちゃん(幸田文さん)のおとうさんが日本の代表的な文豪・幸田露伴。青木玉さんのお嬢さんにあたります。すばらしい感度というか、アタマがいいというのはああいう人のことを言うんでしょうね。知性にピカッとした輝きがあり、お話ししていて、楽しくなってきてキリがない。そうね、おとうさんの話したかったことはそのとき話してしまったから、それでもういいようなもんですね。
小夜:そうそう、小夜もあんなすてきなおとなのひとになれたらいいな。ていねいで、ものやわらかで、しかも、積み上げられた知識が豊富で、考えがはっきりしていて。なによりも、ことばのはしばしにまで、たしなみがあって…。
がの:さすがに幸田露伴の血を引く人。ええ、たしなみを自然に備えている人です。でも、考えがはっきりしている、と言いますが、おとうさんと話しているときは、なんだか、とても不安そう、自信がなさそうだったようには思いませんでしたか。本番で何を話したらいいか、わからない、困ったわ、とか。
小夜:午後4時、本番直前、おとうさんとの電話の最後に「決めました!」とおっしゃいました、「ありがとうございました」とも。おしゃべりのなかで、ピピッとこころにひらめくものがあったのでしょうか。青木さんのあとにはアンカーの柿沼さんからも、挨拶がひとこと。毎日の番組、そのひとつの番組をつくるのも、たいへんなんですね。
がの:もう、あのことは忘れました。忘れないと、いつまでも腹のムシがおさまらないですから。
小夜:おなかに悪いムシを抱えていると、精神衛生上よくないですから、言い残したことを小夜が聞いてあげるわ。
がの:もういいですよ、口惜しかったり恥ずかしかったりして、思い出したくもない。
小夜:まあ、そうおっしゃらずに。本番前の、アナウンサーのおねえさんとの話には間に合わなかったけれど、青木さんとの話、あれはとてもよかった。小学校からハーハー息をきらせて走って帰ってきたけど、その甲斐があったと、小夜はほんとに思ったわ。

――青葉ふれあい読書会《どんぐり倶楽部》とは、どんなグループですか。
さまざまな世界の名作文芸を読みあうグループですが、たくさん本を読むこと、広い分野の本を読むことが目的ではありません。地域活動の一環として続けている活動で、“ふれあい読書会”としているように、すぐれた文学作品を介して地域の人と人とが出会い、それぞれの考え方や意識を交流しあう場です。広い層の人たち、幅広い世代の人たちの参加を期待して8年前にスタートしました。
活動の軸に据えているのは、海外の名作文芸。海外に限定しているわけではありませんが、すぐれた文学作品に描き出される人間それぞれの生きざまをテーマに参加者みんなの前に据えて、それをめぐってさまざまな世代、さまざまな層の人同士で考え方、感じ方を分かち合うこと。そんなところからこころの健康な人であふれる地域にしていきたい、それがねらいです。
――参加者はどういった人たちですか。
いちばん初期のころには、中学校の授業の一環として「星の王子さま」を3クラスの中学3年生と旧世代の人とでいっしょに読み合ったことがありました。その後、中学生、高校生の参加はほとんどなく、40歳台から70歳台の中高年の方がた、それもほとんどは女性、家庭の主婦です。でも、とても意欲的な方がたで、ふだんそんなに読書をすることはないにしても、こころに健康なものをもっていて、明るく闊達で、わたしはこういう人びとに囲まれていて恵まれているなあ、といつも思っています。会員制でもなく、だれでも、いつでも参加できます。参加している人たちからは、たいへん喜ばれ感謝されています。作品を通して多様な人生にふれ、未知の世界、多様な美しい自然にもふれてこころを震わす。そうしたこころの刺激が感性にみずみずしい若やぎをもたらし、こころの健康を保つことになっている、と言ってくれています。
――名作とは、どういう作品と思いますか。このごろ、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や小林多喜二の「蟹工船」がよく読まれていますが、それをどう思いますか。
すぐれた文学作品には、例外なく、ウソがない、甘やかなゴマカシがない、読んだあとにはホンモノに触れたときに特有の深い感動が胸に残る…。このごろ特にそんなふうに思うようになりました。「カラマーゾフ…」も「蟹工船」も読者に鋭く訴えるものがそこにあるからだと思います。ウソやゴマカシがない例を、最近みんなで読んだ「風車小屋だより」と「貧しき人びと」から挙げてみましょう。
前回10月16日に読んだばかりのアルフォンス・ドーデの「風車小屋だより」。この短篇集のなかに「スガンさんのやぎ」という一篇があります。おことわりしますが、これ、わたしの名前にひっかけてテーマにしたのではありませんよ。岸田衿子さんの訳による絵本があります。ご存知でしょうか。これはしかし、絵本らしくない絵本と言えるかも知れません。人によっては、これを子どもに読んで聞かせるのを躊躇うこともありそうです。ヤギが登場する絵本としては、「三びきのやぎのがらがらどん」や「おおかみと七ひきの子やぎ」など、いくつか馴染み深いものありますね。ヤギとトロル、ヤギとオオカミが戦いますが、最後は弱いはずのヤギが勝って、パンパカパ~ンと、ハッピーエンドになります。ハッピーエンドが児童文学の常道ですから。しかし「スガンさん…」のほうは、そのようにはなっていません。死力を尽くして一晩じゅう戦って、ついには力尽きて倒れ、食べられちゃいます。束縛から逃れ自由であることは尊い、冒険心を奮い自分の可能性を確かめる努力は大事。若いこころにはだれにも抑えられない欲望でもあります。一方、自然の仕組みにもそれなりの峻厳な約束ごとがあります。あぶない森へ行けば、高い崖から落ちることもあるだろうし、オオカミに襲われることも自然の掟のうちです。そうした約束ごとにしばられて生きているのが、とりもなおさず、われわれの存在であり、現実だ、とこの詩人はきびしい。童話的な甘やかしはここには微塵もない。
おなじ「風車小屋だより」に入っている「星」という短篇。文庫本にしてわずか5~6ページのものですが、これなどはまさに珠玉の“名品”と言えるのではないでしょうか。読んだだけで、これほどの幸せにめぐりあったことがあるだろうか、と思うほど、いい気持ちにさせてもらえます。雨に拭われたあとの夜空に見る星のように、透き通ってさわやかです。

これを読んだ前の月、9月にはドストエフスキーの「貧しき人びと」を。これはロシアの大文豪が24歳のときに書いた処女作です。最下級の役人の男と、孤児で病気がちの娘。ふたりのあいだには親子ほどの年齢差があります。小心もの同士のつつましやかな、悲しいほどに秘めやかな愛。ふたりがどれほどこころを通わせ合っても、どうにもなりはしない。双方それぞれ涙ぐましい努力をしつつ互いを思いやります。しかし、足掻けば足掻くほど、その足はすべって泥沼の深みにはまりこんでいきます。
このへんは、このごろ顕著に現われてきた格差社会のひずみのなかで苦しむワーキングプアと呼ばれる人びとのすがたをそのまま照射してはいないでしょうか。19世紀の半ばに書かれた作品ですが、今の時代をみごとに映し出しているとも言えますね。オンリピックから帰ってきたメダリスト、あるいは宇宙から帰還した宇宙飛行士など、いわゆる勝ち組の成功者が、子どもの前に立って必ず口にするのが、「夢を持て」「夢は、持ちつづければいつか必ず叶うもの」と言います。しかし、現実はどうか。“ひきこもり”や“不登校”の人の悩みがそういうことばで解消した例は聞きません。そんなのはソラゴトさ、と嘲うかのように、夢を持てば持つほどに事態は悪いほうへ悪いほうへと歯車の回転を早めていくケースのほうがずっとずうっと多い。わたし自身のこれまでを振り返っても、その思いのほうが強いですね。挫折、挫折の繰り返しのなかを、あえぎあえぎ生きてきたようなものですから。夢とは、なかなか叶うものではないから「夢」なんだ、と身にしみて思わされてきました。
作品中の貧しい男と女の「不幸」と「不幸」を掛け合わせたところで、奇数と奇数を掛けても偶数にはならないように、それがクルッと「幸福」に裏返るようなことはなく、どんどん不幸の淵へ導かれていく。ロシアの文豪はついにふたりに幸福な結末をさずけることはありませんでした。
貧しいのは努力が足りないからか。たくさんたくさん涙を流せば幸せになれるのか。運命はかならずしもそんなに公平ではないことを知らされます。
九等官の小役人のマカールと、貧しくとも清らかな少女ワーレンカ。わたしたちは、その男女の貧しさと、わたしたち自身が今感じている貧しさとを比較して話し合いました。贅沢や虚飾を捨て、ある程度の辛抱をし、節約につとめれば、どうにか凌げていくわたしたちの日々の貧しさに比し、不幸な運命に弄ばれるこのふたりの場合は、すぐ死に直結する貧しさです。何がほんとうの貧しさか、何が本当の不幸か。それを容赦なく問いかけてくる作品がこれ。こういう訴求力をもってわたしたちの胸板をぶち抜く作品を名作というのではないでしょうか。
小夜:はい、おとうさん、長くなりましたよ。ここでプツン! 読む本はどんな尺度で選んでいるのか、海外の作品にこだわる理由は何か、声に出して読むこと、など、まだまだありますが、このつぎにしましょう。少しは腹のムシがおさまりましたか?
<2008年10月、読書週間に因んでNHKラジオ第一は「ラジオ井戸端会議」で一週間かけて「読書、しませんか」をテーマに放送。わたしも読書会の主宰者として生放送出演し、その最終日のまとめにはエッセイストの青木奈緒さん(幸田文さんの孫、幸田露伴の曾孫)をゲストに招いて1時間にわたりトークを。おもしろいトークになりましたが、限られた時間のなかで語り合えるのはごくわずかなことのみ。腹ふくるる思いのままでは精神衛生上よろしくない、というわけで、その拾遺集の一部を少女との対話にして3回に分けて…>
NHKラジオ「名作を読み直す」――言い残したことなど〔その1〕
小夜:おとうさんは、なぜ、テレビやラジオに出るたび、不機嫌になるのですか。
がの:えっ、そんなに不機嫌そうでしたか。
小夜:そうよ、傍から声をかけるのがちょっと怖いくらい。
がの:そう、それは悪かったですね。でも、ちょっとひどいとは思いませんか。いろいろ言いたいことがあったのに、何も言えないでいるうち、プツン! ですよ。乱暴です。いつもいつもそうなんだから。
小夜:仕方ないじゃないですか、テレビもラジオも秒単位でプログラムされているのですから。それに、おとうさんのために番組が組まれているんじゃないですからね。
がの:それにしたって、ほら、あのときは風邪をひいていて、鼻汁はダラダラ、ちょっと話すと声がかすれてしまう状態。まずいな、ということで朝一番にお医者にいって、「なんとかしてくださいよ」と泣きつき、これなら、といういちばんいい薬をもらって服んで、それから午後ずうっと待機してくれといわれていて、外出もできない。まず、ディレクターとさんざん話して、そのあと、アナウンサーとも。
小夜:アナウンサーのおねえさんと機嫌よく話していたそうじゃないですか。
がの:あ、あのひとはおとうさんと同郷なの。大学は名古屋のほうだったと思うけど。
小夜:それに、そのあとの青木奈緒さん。ずいぶん長話でしたよ、20分、いや、30分かな。
がの:あの人のおばあちゃん(幸田文さん)のおとうさんが日本の代表的な文豪・幸田露伴。青木玉さんのお嬢さんにあたります。すばらしい感度というか、アタマがいいというのはああいう人のことを言うんでしょうね。知性にピカッとした輝きがあり、お話ししていて、楽しくなってきてキリがない。そうね、おとうさんの話したかったことはそのとき話してしまったから、それでもういいようなもんですね。
小夜:そうそう、小夜もあんなすてきなおとなのひとになれたらいいな。ていねいで、ものやわらかで、しかも、積み上げられた知識が豊富で、考えがはっきりしていて。なによりも、ことばのはしばしにまで、たしなみがあって…。
がの:さすがに幸田露伴の血を引く人。ええ、たしなみを自然に備えている人です。でも、考えがはっきりしている、と言いますが、おとうさんと話しているときは、なんだか、とても不安そう、自信がなさそうだったようには思いませんでしたか。本番で何を話したらいいか、わからない、困ったわ、とか。
小夜:午後4時、本番直前、おとうさんとの電話の最後に「決めました!」とおっしゃいました、「ありがとうございました」とも。おしゃべりのなかで、ピピッとこころにひらめくものがあったのでしょうか。青木さんのあとにはアンカーの柿沼さんからも、挨拶がひとこと。毎日の番組、そのひとつの番組をつくるのも、たいへんなんですね。
がの:もう、あのことは忘れました。忘れないと、いつまでも腹のムシがおさまらないですから。
小夜:おなかに悪いムシを抱えていると、精神衛生上よくないですから、言い残したことを小夜が聞いてあげるわ。
がの:もういいですよ、口惜しかったり恥ずかしかったりして、思い出したくもない。
小夜:まあ、そうおっしゃらずに。本番前の、アナウンサーのおねえさんとの話には間に合わなかったけれど、青木さんとの話、あれはとてもよかった。小学校からハーハー息をきらせて走って帰ってきたけど、その甲斐があったと、小夜はほんとに思ったわ。
――青葉ふれあい読書会《どんぐり倶楽部》とは、どんなグループですか。
さまざまな世界の名作文芸を読みあうグループですが、たくさん本を読むこと、広い分野の本を読むことが目的ではありません。地域活動の一環として続けている活動で、“ふれあい読書会”としているように、すぐれた文学作品を介して地域の人と人とが出会い、それぞれの考え方や意識を交流しあう場です。広い層の人たち、幅広い世代の人たちの参加を期待して8年前にスタートしました。
活動の軸に据えているのは、海外の名作文芸。海外に限定しているわけではありませんが、すぐれた文学作品に描き出される人間それぞれの生きざまをテーマに参加者みんなの前に据えて、それをめぐってさまざまな世代、さまざまな層の人同士で考え方、感じ方を分かち合うこと。そんなところからこころの健康な人であふれる地域にしていきたい、それがねらいです。
――参加者はどういった人たちですか。
いちばん初期のころには、中学校の授業の一環として「星の王子さま」を3クラスの中学3年生と旧世代の人とでいっしょに読み合ったことがありました。その後、中学生、高校生の参加はほとんどなく、40歳台から70歳台の中高年の方がた、それもほとんどは女性、家庭の主婦です。でも、とても意欲的な方がたで、ふだんそんなに読書をすることはないにしても、こころに健康なものをもっていて、明るく闊達で、わたしはこういう人びとに囲まれていて恵まれているなあ、といつも思っています。会員制でもなく、だれでも、いつでも参加できます。参加している人たちからは、たいへん喜ばれ感謝されています。作品を通して多様な人生にふれ、未知の世界、多様な美しい自然にもふれてこころを震わす。そうしたこころの刺激が感性にみずみずしい若やぎをもたらし、こころの健康を保つことになっている、と言ってくれています。
――名作とは、どういう作品と思いますか。このごろ、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や小林多喜二の「蟹工船」がよく読まれていますが、それをどう思いますか。
すぐれた文学作品には、例外なく、ウソがない、甘やかなゴマカシがない、読んだあとにはホンモノに触れたときに特有の深い感動が胸に残る…。このごろ特にそんなふうに思うようになりました。「カラマーゾフ…」も「蟹工船」も読者に鋭く訴えるものがそこにあるからだと思います。ウソやゴマカシがない例を、最近みんなで読んだ「風車小屋だより」と「貧しき人びと」から挙げてみましょう。
前回10月16日に読んだばかりのアルフォンス・ドーデの「風車小屋だより」。この短篇集のなかに「スガンさんのやぎ」という一篇があります。おことわりしますが、これ、わたしの名前にひっかけてテーマにしたのではありませんよ。岸田衿子さんの訳による絵本があります。ご存知でしょうか。これはしかし、絵本らしくない絵本と言えるかも知れません。人によっては、これを子どもに読んで聞かせるのを躊躇うこともありそうです。ヤギが登場する絵本としては、「三びきのやぎのがらがらどん」や「おおかみと七ひきの子やぎ」など、いくつか馴染み深いものありますね。ヤギとトロル、ヤギとオオカミが戦いますが、最後は弱いはずのヤギが勝って、パンパカパ~ンと、ハッピーエンドになります。ハッピーエンドが児童文学の常道ですから。しかし「スガンさん…」のほうは、そのようにはなっていません。死力を尽くして一晩じゅう戦って、ついには力尽きて倒れ、食べられちゃいます。束縛から逃れ自由であることは尊い、冒険心を奮い自分の可能性を確かめる努力は大事。若いこころにはだれにも抑えられない欲望でもあります。一方、自然の仕組みにもそれなりの峻厳な約束ごとがあります。あぶない森へ行けば、高い崖から落ちることもあるだろうし、オオカミに襲われることも自然の掟のうちです。そうした約束ごとにしばられて生きているのが、とりもなおさず、われわれの存在であり、現実だ、とこの詩人はきびしい。童話的な甘やかしはここには微塵もない。
おなじ「風車小屋だより」に入っている「星」という短篇。文庫本にしてわずか5~6ページのものですが、これなどはまさに珠玉の“名品”と言えるのではないでしょうか。読んだだけで、これほどの幸せにめぐりあったことがあるだろうか、と思うほど、いい気持ちにさせてもらえます。雨に拭われたあとの夜空に見る星のように、透き通ってさわやかです。
これを読んだ前の月、9月にはドストエフスキーの「貧しき人びと」を。これはロシアの大文豪が24歳のときに書いた処女作です。最下級の役人の男と、孤児で病気がちの娘。ふたりのあいだには親子ほどの年齢差があります。小心もの同士のつつましやかな、悲しいほどに秘めやかな愛。ふたりがどれほどこころを通わせ合っても、どうにもなりはしない。双方それぞれ涙ぐましい努力をしつつ互いを思いやります。しかし、足掻けば足掻くほど、その足はすべって泥沼の深みにはまりこんでいきます。
このへんは、このごろ顕著に現われてきた格差社会のひずみのなかで苦しむワーキングプアと呼ばれる人びとのすがたをそのまま照射してはいないでしょうか。19世紀の半ばに書かれた作品ですが、今の時代をみごとに映し出しているとも言えますね。オンリピックから帰ってきたメダリスト、あるいは宇宙から帰還した宇宙飛行士など、いわゆる勝ち組の成功者が、子どもの前に立って必ず口にするのが、「夢を持て」「夢は、持ちつづければいつか必ず叶うもの」と言います。しかし、現実はどうか。“ひきこもり”や“不登校”の人の悩みがそういうことばで解消した例は聞きません。そんなのはソラゴトさ、と嘲うかのように、夢を持てば持つほどに事態は悪いほうへ悪いほうへと歯車の回転を早めていくケースのほうがずっとずうっと多い。わたし自身のこれまでを振り返っても、その思いのほうが強いですね。挫折、挫折の繰り返しのなかを、あえぎあえぎ生きてきたようなものですから。夢とは、なかなか叶うものではないから「夢」なんだ、と身にしみて思わされてきました。
作品中の貧しい男と女の「不幸」と「不幸」を掛け合わせたところで、奇数と奇数を掛けても偶数にはならないように、それがクルッと「幸福」に裏返るようなことはなく、どんどん不幸の淵へ導かれていく。ロシアの文豪はついにふたりに幸福な結末をさずけることはありませんでした。
貧しいのは努力が足りないからか。たくさんたくさん涙を流せば幸せになれるのか。運命はかならずしもそんなに公平ではないことを知らされます。
九等官の小役人のマカールと、貧しくとも清らかな少女ワーレンカ。わたしたちは、その男女の貧しさと、わたしたち自身が今感じている貧しさとを比較して話し合いました。贅沢や虚飾を捨て、ある程度の辛抱をし、節約につとめれば、どうにか凌げていくわたしたちの日々の貧しさに比し、不幸な運命に弄ばれるこのふたりの場合は、すぐ死に直結する貧しさです。何がほんとうの貧しさか、何が本当の不幸か。それを容赦なく問いかけてくる作品がこれ。こういう訴求力をもってわたしたちの胸板をぶち抜く作品を名作というのではないでしょうか。
小夜:はい、おとうさん、長くなりましたよ。ここでプツン! 読む本はどんな尺度で選んでいるのか、海外の作品にこだわる理由は何か、声に出して読むこと、など、まだまだありますが、このつぎにしましょう。少しは腹のムシがおさまりましたか?
Posted by 〔がの〕さん at 10:57│Comments(0)
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