2009年05月07日

W/日本の長い眠りを覚ました黒船

W/日本の長い眠りを覚ました黒船

 横浜市では、開港150周年を祝う記念行事がおこなわれています。4月28日から9月27日までの153日間、みなとみらい地区をメイン会場にして。
 5月20日のわたしたちの第10回《どんぐり》文学歴史散歩は、この祝典とは直接的にあまり関係ありませんが、鎖国を解いて日本に新しい朝をもたらした地をめぐることになります。そのへんの歴史を、との声に応え、散歩に先がけて少しだけご紹介いたします。

 アメリカからの使節ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に姿をあらわしたのが1853年のこと。それまでの日本人の常識を超える、途方もなく巨大な「黒船」は、いかにも威圧的で、日本じゅうが右往左往。すでに末期にあった徳川幕府も、蜂の巣をひっかきまわしたような騒ぎでした。
 このときは、ペリーはさしたることもなくいったん帰国しましたが、翌1854年、今度は500人の軍人を率いてふたたび横浜にやってきました。スタンドプレイとの批判を一身にかぶるなか、幕府の井伊直弼大老はついに話し合いに応じ、日米和親条約を結びます。その内容は、暴風雨に遭遇してアメリカの船に損傷が生じたとき、それを保護すること、アメリカ船に水や食料や燃料を補給する、といったもの。そのため、下田と函館の2港を開くことに応じました。「治外法権」で外国人を日本国内では裁けない、などの不利はあったけれど、わずか2港とはいえ、200年余にわたる日本の夜、鎖国が解かれ、日本の歴史がクリルッと変わった瞬間で、これを機に欧米の文物がドッと日本に入ってきました。

 ところで、ペリーはなぜ横浜に来たのでしょうか。それは、将軍のいる江戸に近かったことと、横浜の海が深く、大型の船の停泊に好都合だったことによります。家が100戸ほどしかない小さな農漁村だった横浜。森鴎外(林太郎)の作詞による横浜市歌をご存知でしょうか。明治42年(1907)、開港50周年記念大祝賀会式典ではじめて披露されたものといわれます。その歌詞の一部、

 「むかし思へば苫屋(とまや)の烟(けむり) 
 ちらりほらりと立てし處 今は百舟(ももふね)百千舟(ももちふね) 
 泊る處ぞ見よや…」

文豪の森鴎外が実際にその眼で見たかどうかはわかりませんが、海に沿って粗末な掘っ立て小屋があり、そこからケムリが一すじ二すじ立ち上っているという風光。当時の横浜のおもかげをしのぶことができますね。
 本格的な貿易がはじまったのはさらに4年後の1858年、アメリカとのあいだで取り交わされた日米修好通商条約から。翌年の1859年、つまり150年前、横浜と函館が開港されました。つづいてイギリス、フランス、ロシア、オランダとも条約が締結され、加えて、長崎、神戸、新潟の5港も世界への窓口となりました。


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Posted by 〔がの〕さん at 11:38│Comments(0)文学・歴史散歩
 
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