F/ペルソナ(影/仮面)と折り合いをつけ、自制しつつ…
「ジーキル博士とハイド氏」
ほんとうはあまり本意ではないけれど、
その場の空気をとらえて自分を抑え、折り合いをつける…。
一つことにずうっと魂を詰めてかかわり、疲れもピーク。
すべてをワッと放り出して解放されたいという誘惑。
(学究生活に疲れたジーキル博士が、薬液の力を借りて
放埓の大海、悪意の世界へ飛び込んでいったように)
好むと好まざるとにかかわらず、そんなことは
ふだんの生活のなかで、いつでもやっていること。
ほんとうの自分の気持ちとひとつでないときのほうが
ずっとずっと多いかもしれないわたしたちの社会生活。
だからといって、それを「
二重人格」「
多重人格」と
ことさらに呼ぶことはない。
作者は、他と自分を合わせるのはけっこうだが、
合わせてばかりいると自分のなかに醜い怪物を生む、
ハイドのような畸形の自分が勢いを得て暴れだす、
モラル正しいだけじゃ、生きていけないよ、
きれいな玄関と床の間だけじゃ生活していけないよ――、
そう言いたいのだろうか。「この肉体、じつは
蜉蝣(かげろう)のごとく実体なく、
狭霧(さぎり)のごとくはかないものだから」と。
間もなく始まる裁判員制度において、有罪か無罪か、
刑の軽重を問われるとき、その「多重人格」、
すなわち「
解離性同一性障害」の検証が
大きな判断の基準になることが想定される。
薬液によって性格も容貌も一変させる実験に成功した
ジーキル博士のケースを俟つまでもなく、
わたしたちのなかには、いつももう一人のわたし、
影としてのペルソナが生きている。
その負の部分とどう折り合いをつけていくか、
作者はそこをわたしたちに問いかけているようだ。
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