JC/光源氏のいる風景

〔がの〕さん

2024年08月25日 00:20

光源氏のいる風景



 「源氏物語」のおもしろさ、魅力とは…?

わたしにとっての「源氏物語」の魅力は? …そう問われて、ひとにわかってもらえる説明がわたしにできるとは思えないんですがね。「もののあはれ」と説くような国学者ならいざ知らず、菲才なわたしなどは、分析的にこれを読むことはできないし、そんなことをしたら、学校の教科書で読んだときのつまらなさと同じで、ちっとも興味がわきませんよね。
ちっとぐらいわからない古語が出てきても、そんなものはすっとばして読む、そこにしか古典文学を読む醍醐味はないように思うことがあります。だって、どうでしょうか、この小説、堅物の乾いた知性主義者は嫌うのでしょうが(陰では案外好きなのかな?)、ほら、“すみれの花 咲くころ はじめて君を知りぬ…”の宝塚歌劇を見ているような錯覚さえ感じることがあるように思うんですよね、「愛」と「恋」の専売特許局としての華麗なるタカラヅカ…。構えて読んだらその味はわからないかもしれませんし。

王朝文化のきらめき
でも、何でしょうねぇ、「源氏物語」の魅力とは…?
「日本古典文学に見ることばの美しさ」をいくら語っても、それはソラゴトでしかないでしょうしね、自分のことでいっぱい、いっぱいの、文章をしっかり噛みしめて読むことをしなくなって、ただシッタバッタと東奔西走するいまどきのパソコン族、ケータイ・スマホ族にとっては。
でも、心落ち着けて声に出して読んでみると、ことばに独特のリズムがあって心地よく、ゆりかごにゆられているよう…、ということがあると思います。格調高い、金襴緞子を敷き詰めたような美しいことばの世界には、背筋をスッとさせるものがあります。
それに、王朝文化のきらめきが放つ魅力、そのゆったりとした流れに癒しを求める人もないではないはず。季節行事に見るゆかしさや女たちの着る衣装の繊細さ、色のあでやかさ。NHK大河ドラマ「光る君へ」でご覧のとおりの豪華さ。そこに通う風が、妙に日本人の本源的な感覚に合う、というか、わたしたちの感覚の奥のところまでじわじわと沁みてくるような、なじみあるなつかしさを覚える、ということ。
また、これまで知らなかった日本の時代を知る驚きの機会ともなりますね。王朝時代のきらびやかな文化、わたしたちの知らない、あるいは忘れかけた世界、でもそこはもともとわたしたちのいた故郷、へ導いてくれるパワーと魅惑がありますね。


紫式部の部屋をおとずれる藤原道長


さまざまな愛のかたち
正直なところをいいますと、わたしのような卑属で凡愚なものにとっての「源氏物語」の魅力、いや、おもしろさを、あえて一言であらわすなら、壮大な「恋の万華鏡」だ、ということでしょうか。“いい女”のオンパレード、そして、地位において、経済力において、容姿において、「光る」源氏の連綿たる女あさり。「光」乏しいわが身にひきかえ、欲しいと思えばどんな女でもモノにできる、光そのもののような男への羨望であり憧れであり、また嫉妬、揶揄と侮蔑。…いや、やっぱり、やっかみかな? 永遠の女性たる藤壺がいるかと思えば、“一見美人”とは違って底光りのする美しさの明石の上がおり、末摘花のようなゲテモノや、老いてますますおさかんな源典侍(げんのないしのすけ)のようなバケモノもいる。もの堅い空蝉や朝顔がいるかと思えば、娼婦のような根っからのおとこ好きの夕顔や朧月夜のようなのもいる、と、いろいろなタイプの女性が登場してきて「愛」を結ぶわけですが、考えてみれば、終局的には、ことごとくその愛はその場かぎりの失敗作で、未来につながるものがない。
だってそうでしょう、あれほど多くの女性と交情した浮かれ男のくせに、子どもはあまりいないですよね。その時代、少子化は流行らなかったはずなのに、生産性に乏しい男。反面、これは紫式部の敷いた皮肉か、息子の夕霧のほうは、まじめ一方の堅物であり、要領の悪い愚直な律儀もの。しかし、めでたくも、たくさんの子女に恵まれています。


低音部をなす無常観
教科書でしか「源氏…」を読んだことのない人には知られることのない物語世界ですが、遠い世界の浮かれたスケベばなしというだけではないんですね、これ。人間の生と死、読み進んでいくと、ゴォーン、ゴォーーンと、人生無常のひびきが不気味な低音部をなしていることがわかります。ついにあまり親しめなかった正妻の葵の上が死の床につき、六条御息所が怨念深く死に、あんなに憧れていた藤壺の宮も、夕顔も、そしてついには最愛の紫の上にも先だたれます。空蝉も朧月夜も出家して世を捨てて、源氏はたったひとりきりで残されます。光につつまれた驕慢な美貌の貴公子が完膚なきまでにたたきのめされる哀れな姿は、わたしのような光乏しい存在にとっては、それ見たことか! とちょっとうれしくなっちゃうんですね。人生、そんなにうまくいくもんじゃないだろ、バカめ、とベロを出したくなる痛快な展開。
王朝時代の才女、紫式部のエスプリをきかせた皮肉が、殺伐としたこの煩雑な世にすれ切れてよれよれになって生きる、この光乏しいこの存在をホッとさせてくれる、といったところか。


やんごとなき宮廷生活のかげに、悲しみと怨みに慟哭する姿も
菲才をかえりみず愧じをしのんで言えば、「源氏物語」は、やんごとなき公達が繰り返す恋と性の渉猟物語として読まれる(いや、あまり読まれない)古典文学ですが、なかなか通して読むまではできないながら、気に入ったところを繰り返し、声に出して読んでいると、そののびのびとした円転滑脱な発想がよく見えてきますし、王朝文学の特徴とされる精緻幽婉な感情をたっぷりと楽しませてもらえるとともに、意外かも知れませんが、ある部分は躍動的、いや、活劇的でさえある部分もあって、こちらをハラハラ、ドキドキさせてくれます。夢中にあるような酔い心地さえ覚えます。そして、四季の自然にまみれ、自然にまろぶ彼らの生活は、情趣深いものがあって、読むもののこころを豊かにしてくれます。色彩感覚にも富み、華麗な夢の万華鏡ですね、やはり。しかも、もう一歩深く読めば、やんごとなき上流貴族のきれいごと、苦労知らずのめでたさではなく、じつは悲哀に号泣する人間の姿、怨念に慟哭し咆哮する人間の、なまなましい姿も見えてきます。みんな合わせて、これぞ日本人の美意識の原点であり、今日にいたるまで、日本人の趣味生活のあらゆる面で、この物語が直接間接に影響していることが知れます。

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