<ギリシアの神話と英雄物語>
英雄オデュッセウス<下>
再話=菅野 耿
美の女神アフロディテとパンの大理石像。ミロス島で1904年に発見された。
アテネ考古学博物館蔵
オデュッセウスは巨人の寝床からヤナギの枝を引きぬいた。それで雄ヒツジを3頭ずつしばり、それぞれのまん中のヒツジの腹の下に6人の部下を一人ずつゆわえつけた。彼自身はいちばん大きい雄ヒツジをつかまえて、その腹の下にしがみつき、深い毛のかげに身をかくした。
夜が明けそめた。ヒツジたちはうるさく鳴きかわし、草を求めてしきりに牧場へとび出していきたがった。ポリュペモスは、ほら穴の入口近くでひしめきあっているヒツジの背中をまさぐっては、1頭ずつ外へ出してやった。しかし、腹の下まではさぐろうとしなかった。
6人の部下たちにつづいて、最後にオデュッセウスも無事にほら穴から脱けだすことに成功した。
全員は丘の斜面を駆けおりたところまで来て、たがいに抱きあって無事を喜びあい、失った仲間のことを思って嘆いた。休む間もなく彼らはヒツジを追いたて、ほかの仲間の待つ海岸に出た。
女神あるいは地母神像、両手に蛇を握っている。なぜか頭のうえには猫。
イラクリオン考古学博物館蔵
オデュッセウス……いそいでこのヒツジを船に積みこむのだ。積みこんだらすぐ出発するぞ。
部下のものたちは死にもの狂いで櫂(かい)をこぎだした。船はぐんぐん海岸から遠ざかった。
あとを追ってきた巨人は、岩をむしりとっては、めくらめっぽう海にむかって投げつけた。そのたびに海水はふくれあがり、高い波がおこって船は大きくゆれた。だが、ほどなくその岩のつぶても、船には届かなくなった。
沖まで来てオデュッセウスは船のなかで立ちあがり、大声をはりあげた。
オデュッセウス……ポリュペモスよ、聞け、いずれの日かだれぞが来て、おまえの目をつぶしたのはだれか、と問われたら、イタケー島の王オデュッセウスにやられた、というがよい。そうだ、わたしはラエルテースの子、トロイアの征服者オデュッセウスだ。
ポリュペモス……おお、なんと、おまえだったのか。いずれかの日、オデュッセウスというものがおれにとんでもない禍(わざわい)をもたらすという予言を聞いたことがある。エイッ! それがこのことだったとは!
オデュッセウス……困っている旅のものにひどい仕打ちをした報いだ。痛みに狂うがよい。
ポリュペモス……チビのろくでなしめ、このままではすまぬぞ。おれの父はポセイドン。偉大な海の神がおれの仇(かたき)をうってくれようぞ。
石棺に刻まれた、獣と戦う男たち
オデュッセウス……神々は、ひとの勇気を愛(め)ずることはなさるが、傲(おご)りはきつく罰しなさいます。海の神ポセイドンは巨人ポリュペモスの願いを聞き届けて、わたしと部下たちの先ざきの航海に幾多の困難を用意なさいました。
数奇な運命に弄(もてあそ)ばれて漂流するうち、わたしはすべての部下を失うことになりました。六つの頭をもつ怪物スキュラに目の前で仲間を食われたこと、魔女セイレーンの美しい声に堪(こら)えようもなく誘惑されたこと、そのほかのいずれの記憶も、わたしの胸を痛めないものはございません。オギュギア島でカリュプソに囚われて7年、そしてようやく逃れて筏(いかだ)で荒海を漂い、ご覧のとおりまったく無一物になって、ひとり、このパイアケスの人びとのすむ国に流れ着きました。この日まで海の神による仕打ちは止むことがなかったのでございます。
聞き終わってパイアケスの人びとは、ことばもなくそこにすわっていた。最後にアルキノオス王が沈黙を破った。
アルキノオス……そなたの困難は終わった。今はただ、ゆっくりと身を休めてくだされ、帆に追い風をはらみ、静かに地中海の青海原をゆくあすからの航海だけを夢に見ながら。
ユリの皇子の浮彫壁画(複製) 百合と孔雀の冠をかぶっている。
実物はイラクリオン考古学博物館(クレタ)に