2012年05月14日

✦「義経」と「平知盛」

「義経」と「平知盛」
  ――判官びいきに見る日本人的感性
 

 贔屓(ひいき)ということ、「あちらがわ」と「こちらがわ」を意識して、木下順二氏の「義経」「知盛」を読んでみました。読んでいる側によって、どちらも「こちら」になるんですよね。物事は軸足を置いているほうが「こちら」になるんだ、とわかっていながら不思議に感心してしまいました。〔PWMさん〕

 「貝」が四つも。「贔屓」にはそもそもどんな意味があるんでしょうか。かつてのNHKの大河ドラマ「義経」はだいたい見ました。室町時代中期に成立したと推定されている「義経記(ぎけいき)」全八巻のうち、第一~第三巻あたりまで(弁慶が太刀千本の略奪という野望を抱き、牛若丸と京都・五条の橋の上で争って負け、その家来になるあたりまで)はかなり忠実に「義経記」に添って描いていたように思ったのですが、そのあとは、人気タレントたちがつくるテレビドラマ的脚色が鼻につき、ときどき違和感を覚えながら…。

 「あちら」と「こちら」という対比で義経と平家の武将たちの存在を考えると、「義経記」のほうは義経の私人としての側面がクローズアップされているのに対して、「平家物語」のほうは公人としての義経を描いていることに気づきます。とくに、後段の源平の戦いでの義経の活躍について「義経記」はわずか数行しか叙述しておりませんで、武将としてのもっとも華やかな活躍の場面は「平家物語」のほうでどうぞ見てください、という突き放した感じ。義経の絶頂期の前後の不遇な生い立ちと悲劇的な末路を歩む運命を描くのが主題になっていまして、そのへんが古くから日本人の感性をくすぐるのでしょう。いわゆる「判官びいき」を生み、そこからどんどん伝奇性へ傾斜していって、室町時代以降、無数の義経判官をめぐる作品が生まれていきますね。

 お能・謡曲や幸若、浄瑠璃、あるいはまた御伽草子、浮世草子、草双紙など広い文芸、芸能に影響を及ぼしていることは、よく知られているとおり。「熊坂」「橋弁慶」「二人静」「吉野静」「忠信」「安宅」「衣川」「腰越」「冨樫」…といった曲のことは、日本に生活している人ならいろいろな機会に耳にしているはず。浄瑠璃の近松門左衛門の「平家女護ケ島」とか、竹田出雲らの「義経千本桜」、並木宗輔らの「一谷嫩軍記」などなど、おびただしい影響作が見られ、義経は日本人にとっては最大のヒーローの一人として語られてきたんですね。



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 赤羽末吉氏の絵本、「武蔵坊弁慶」「屋島のたたかい」もあわせて読みました。姫路の書写山円教寺に弁慶のゆかりの品がいくつもあることに納得したり、面白かったです。〔PWMさん〕 

 弁慶ですか。わたしは個人的には、義経以上に弁慶に興味があります。佐藤継信佐藤忠信とともに。弁慶は、熊野別当弁せうが、参詣にきた二位大納言の姫君をかどわかして生ませた子で、生まれ落ちたときから醜い異形だったとされています。お書きいただいた播磨の書写山ですが、それは、可哀相に異形に生まれたばかりに殺されかかったところを、別当の妹にあたる人が憐れんでひきとってくれた。そのころは「鬼若」と名づけられ、比叡山の学頭のもとに修養のためあずけられます。ところがもともと手のつけられない乱暴者ですから、そこには置いておけず、山門を追い出されることになり、以降は自分を武蔵坊弁慶と名乗っていろいろな地をうろうろと遍歴、そして書写山に登って夏行につとめました。ここでもまた悶着をおこし、もうやけくそです、堂舎を焼き払って出奔、そのあと、よく知られる太刀千本奪取の野望に走るわけですね。

 テレビドラマの最後のほうで描かれたはずですが、義経が頼朝の怒りと憎しみを買って奥州へ脱出します。藤原秀衡をたよって、山伏すがたに身をやつしてのきびしい旅。大津、愛発山、三の口、平泉寺、如意の渡し、直江津と、一行には危難がつぎつぎに襲い掛かりますが、そのつど発揮する弁慶の機知と胆力は、えっ、あの弁慶が? と思ってしまうほどすごいものがあり、深い感動をおぼえます。秀衡の子の泰衡に衣川で攻められ、壮絶な立ち往生を遂げる弁慶には、義経以上に魅力を感じてしまいます。義経をかばって、身代わりになって死んでいく佐藤継信・忠信、そして弁慶のみごとな死に様に、ふしぎなあこがれを感じませんか。義経とその周辺のことは、たいへんおもしろく、語りだしたらきりがありませんね。

 【佐藤継信・忠信
 福島まで行きますと、佐藤家の菩提寺の医王寺があります。弁慶とならんでわたしの大好きな佐藤継信・忠信にゆかりの深い地。義経に従い、義経の身代わりになって果てた武将ですね。

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 幸若舞の「八嶋」で、この兄弟の妻たちが兄弟の母に甲冑を身にまとい、夫の勇姿を見せた、という話があります。義経に従って鎌倉へ馳せ参じ、後に京都に攻め上った家中の者のうち、他のいくたりかは無事に戻ったのに、佐藤兄弟は二人ながらに形見だけが戻ったことに悲嘆に暮れる義母を力づけようと、形見の甲冑を妻たちが身にまとい、「ただ今、武勲を挙げて凱旋いたしました」と報告する話です。〔DRTさん〕

 謡曲「接待」でもそのお母さんが登場します。「八嶋」の前段のようなものでしょうか。老いたそのお母さんが息子たちをしのびつつ、山伏たちをお接待しています。そこへ頼朝の軍に追われた義経主従が落ちのびてやってきます。ここで弁慶が語るんですね。屋島の戦いで主君の義経をかばって死んでいった継信のこと、また弟の忠信が兄のかたきを討ったことなどを。絶品ですよ、そのことばは。さらに泣かせるのは、継信が遺した娘、鶴君が、この一行にお酒をすすめ、まめまめしく給仕をすること。芭蕉はこの物語を思い起こしてこの地で悲しみの涙を落としています。このあたり、NHKのドラマ「義経」でどう表現されるのか、わたしは注目していました。
 兄弟の最期を知って嘆く老いた母を見かねて、継信・忠信のお嫁さんたちが、夫の甲冑を身につけ、長刀をもったすがたをし、凱旋して帰ったように振る舞ってなぐさめたそのやさしい心根を愛で、「八嶋」の物語が語られるようになりました。ここでも芭蕉はふたりの妻のけなげさに思いをいたし、「笈も太刀も 五月に飾れ 紙幟」と詠んでいます。わたしが、義経よりも、弁慶や継信・忠信へ強い思いを寄せるのは、こうした物語を知るからかも知れません。
  

Posted by 〔がの〕さん at 21:28Comments(0)TrackBack(0)日本古典文学

2012年04月12日

✦平清盛と後白河院と「梁塵秘抄」

遊びをせんとや生まれけむ

>いまのNHK大河ドラマ「平清盛」のタイトルバックに流れているうた「遊びをせんとや生まれけむ…」は後白河上皇がつくった「梁塵秘抄」から採ったものとか。〔P〕
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もうちょっと正確には、

遊びをせんとや生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ


「梁塵秘抄」359番の歌ですね。
「梁塵秘抄」は大天狗といわれる後白河上皇が、「つくった」というよりは、周囲のものに命じて当時の俗謡(今様)をあつめさせ、つくらせたということでしょうね。平家か源氏か、朝廷はどうなる、という世がひっくりかえるようなときに、のんびりとこういう他愛もない(!)信仰と風俗と愛欲の歌謡をつくらせてうつつを抜かしていたタヌキじじいぶりがおもしろいですよね。
  遊びをせんとや生まれけむ…
をめぐっては,以前から学説が真っ二つに分れているようです。ふつうには、親の目にうつる無邪気な子どものすがたであり、ほのぼのとしたやさしさが感じられるとするもの。これから背負わねばならない長く重い業苦とは別に、健やかな子どもの未来に光を見る歌。その一方の説はこうです。片田舎に生まれた少女が貧しさから口減らしのため悪所に売られ,夜をひさぐ身となって何年か、いつか性病を移され肺病にもかかってもう直る見込みはなく、近い死のときを待つばかりの不幸な女。その女が2階の手すりにぐんにゃり自暴自棄によりかかりながら、下の通りでキャッキャと遊ぶこどもらのすがたをぼんやりと見ている。自分の幼かったころを懐かしむ思いとともに、いまは嬉々として遊んでいるこの子たちも、やがて自分と同じような修羅の道へ歩む宿業を負っているであろうことを思い、それをあわれんでうたった唄。
どうでしょうか。どうもあとの説のほうが現実味があるようで、わたしは好きなんですが。
まあ、解釈はどちらでもいいんじゃないでしょうか。

後白河院をタヌキじじいと言ってしまいましたが、なかなか一筋縄ではくくれない人物。スケールは違いますが、ちょっとこの人物に似たいまの政治家がいますよね。あっちの勢力とこっちの勢力をぶつけ合わせ、ひとつが勝てばまた別の勢力とぶつけて拮抗させる、台風の目のような権謀術策に長けた人物。結局のところ、後白河院は、清盛にも勝ち、義仲や義経にも勝ち、鎌倉幕府を開いた源頼朝にも譲ることなく、じょうずに、粘り強く、武家に屈することなく、院政の権威、皇室の権威を守りぬいて乱世を生きた「大天狗」ということになりますよね。
古代と中世の分かれ目を告げる民衆大衆の声を集めた「梁塵秘抄」。せっかくですから、あと二、三、よく知られる代表的な歌をご紹介しておきましょうか。

「舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば 
馬(むま)の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 
踏み破(わ)らせてん 
まことに愛(うつく)しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん
 (408番)

仏は常に在(いま)せども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
 (26番)

恋しとよ 君恋しとよ ゆかしとよ
逢はばや見ばや 見ばや 見えばや
 (485番)

   こころの澄むものは 霞 花園 夜半の月 秋の野辺
  上下を分かたぬは恋の路 岩間を洩りくる滝の水
(333番)

    
✻画像はアセビ
  

Posted by 〔がの〕さん at 12:22Comments(4)TrackBack(0)日本古典文学

2012年03月10日

F/ 「トム・ソーヤ」と「ハックルベリー・フィン」

「トム・ソーヤ」と「ハックルベリー・フィン」
  アメリカの大自然を描く一大叙事詩であり、
  この国の抱える宿業の課題にも


 忌日になる9月21日。宮澤賢治にこころを寄せるその日、わたし自身は、地域の文化講座で、マーク・トウェインについて2時間ほど口演してきました。その処女作となった「キャラヴェラス郡の跳び蛙」から、代表作「トム・ソーヤの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」。そして悪魔に魅入られたように次つぎと不幸(※注)にみまわれた後半生に、とつぜん、ペシミズムの色が極度に濃くなって、やたら人間の醜悪さ、卑劣さを書くようになりますが、その象徴的な作品「ハドリバーグを堕落させた男」「不思議な少年」といった作品へとたどりながら、その文学的軌跡と、米文学史における意味、といったあたりをしゃべりました。


 時間がなく、深くは触れることができませんでしたが、わたしがほんとうにしゃべりたかったポイントは、「トム・ソーヤの冒険」と「ハックルベリー・フィンの冒険」のあいだの比較。わたしが比較するまでもなく、文学としての社会的な評価は圧倒的に「ハックルベリー・フィン」なのですが、日本における人気という点では、これまた圧倒的に「トム・ソーヤ」のほうなんですね。子どもらしい自然さ、無邪気ないたずら、悪知恵、大人が押しつける規範への抵抗、冒険…、といったところで日本の読者に受けていますが、この作家が生涯を通じて本当に書こうとしたのは、そういうことではなかったように思われます。「トム・ソーヤ」のほうではこの作家に特有の諧謔の精神はぐっと薄められているようですし。

 「トム・ソーヤ」を書いたのが41歳のとき、「ハックルベリー・フィン」を書いたのが49歳のとき。作家としての成長、人間としても成熟、ということもあるでしょうが、「トム・ソーヤ」には、初期の傾向、フロンティアのトール・テール(ほらばなし)の雰囲気が多分に入っています。処女作「キャラヴェラス郡の跳び蛙」に近い、軽いユーモラスな筆致の自由奔放さがあり、それが魅力でもあります。マーク・トウェインは、中西部にあってさんざん失敗を繰り返し、一攫千金を夢みてゴールドラッシュに沸く西部へ兄とともに行きます。鉱山のまわりをうろうろ徘徊する日々のあと、やっと新聞社に職を得て文章を書くようになりますが、新聞といっても、教養のない鉱山労働者たちが読む新聞ですから、内容は、社会的なニュース、政治状況、社会思想なんぞとはぜんぜん違います。場末の酒場で語られるような、おもしろおかしいバカばなしであり、うわさばなし、悪口陰口、それに他愛もない娯楽、そんなものばかりです(「ミシシッピーの人びと」参照)。もう、虚栄も知らない、ナマの人間そのままを生き生きと描くことをやって、とつじょ「太平洋岸の野性的ユーモア作家」として東部のほうでも評判になります。その流れの勢いのなかで書いたのが「トム・ソーヤ」と云えるように思います。俗語や方言を随所に使いこなした、簡潔で率直な文章と云えるでしょうね。もちろんこの作家には文学修行の経験なんてありません。

 わたし個人の好みとしては、どうも、そういう文章は苦手でした。ひと世代前の作家、たとえばメルヴィルやホーソンの格調高い文体に馴染んでいたこともあるでしょうが、いくら斬新だといわれても、臭くって、軽くって、どうも好きになれませんでした。


ミシシッピーをのぼりくだりする蒸気船の出発風景


 しかし、ヘミングウェイが「アメリカ現代文学は『ハックルベリー・フィンの冒険』の一冊にはじまる」と云ったように、読んで一発、たしかにこちらは傑作だと思いました。日本では「トム・ソーヤ」の姉妹編と呼ばれることが多いですが、やめてくれ~、といいたいほど、こちらにはピーインと来るものを感じました。方言を駆使した闊達な表現で子どもの世界をそのまま描き出し、素朴というか粗野というか、空想力に満ちあふれた子どもならではの自然さ、その自由さをテコにして、虚偽と虚栄に満ちた大人社会を皮肉る、その諧謔精神、ユーモラスな味は、「トム・ソーヤ」とも共通するのでしょうが、それでも、どこかで決定的に違うんですね。
 ハックが逃亡中の黒人奴隷のジムと筏でミシシッピー川をくだる旅のなかで、何気ない表現ですが、こんなことを云います。

 「なんたって筏のうえほど気のきいたところはありはしないぜ。他の場所へ行ってみろ、狭苦しくって息がつまるようだ。ここはそうじゃなくって、とっても自由で呑気で、いい気持ちなんだ」

 
 アメリカの背骨のようにしてそのまん中を南北に貫く大河、アメリカの人びとが誇りとして尊ぶミシシッピーの大自然をバックに描かれた一大叙事詩というだけでなく、アメリカのノドに古くから突き刺さっているトゲ、人種差別の問題を、ふたりの少年のごく自然なふれあいでヒューマンに越えていっていますね。この作家の本領はここではないでしょうか。マーク・トウェインが「アメリカ文学の父」と呼ばれ、アメリカの国民的作家とされるのは、ここ。そして、この作家の作品を読み解くポイントもこのへんにあるのではないでしょうか。
 それにしても、ハック。仕事もしない呑んだくれで、何かといえばすぐぶんなぐる、どうしようもない粗野な父親と決別して、自らつくりだす筏のうえの自由さ!(トム・ソーヤの恵まれた家庭環境とはまったく違います)。そこでははっきり云わないでも、アメリカ社会の腐敗、愚劣さ、物質万能主義、センチメンタリズム、偽善といったものが、雄渾な大河の流れのうえにハダカにされ、ふわふわアブクのように浮き上がって見えてきます。
 「気のきいた筏のうえの自由な日々」…。いまの日本の子どもたちの閉塞感と孤独を想うと、なんという晴ればれとした風光ではないか! 自由といいながらちっとも自由でないこのごろの子どもの実像とは、なんと対照的なことか!
 「トム・ソーヤ」を読むときにも、ぜひ「ハックルベリー・フィンの冒険」まで広げてテーマを探ってほしい、と、わたしは思うわけです。

※注・絶頂期を経て、50歳代の半ば、相次ぐ不幸にみまわれます。まず、母の死、自分のつくった出版社の破産と巨額の負債、長女の急死(脳膜炎)、妻の喘息発作の発病と死、すぐつづいて次女の交通事故死、三女は風呂場で不慮の死…、といった不幸。晩年のマーク・トウェインは、ペシミスティックな作風を示すようになり、悪夢や予言に深い関心を寄せ、白い衣服しか身につけないというような奇行が目立ったといいます。

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>この夏、偶然にも「ハックルベリー・フィンの冒険」を買い、読みふけっていました。トム・ソーヤの育った環境とは違い、本当にまともな教育を受けていないハックが、逃亡奴隷とともに行動する。逃亡奴隷を助けるということは、当時では大罪。〔Drt さん〕

⇒ 逃亡奴隷のジムをその所有者に渡さないと決意した瞬間から、さまざまな問題が起こってきましたね。旧家のいさかいに巻き込まれたり、ふたりの詐欺師にまんまと利用され、ジムを売りとばされたり…。そのあとのさまざまな救出作戦がおもしろいわけですが。
アメリカの児童文学に黒人奴隷の問題が登場するのは、これが初めてではありません。「ハックルベリー・フィンの冒険」が世に出たのが1884年、それより先、1852年にはストウ夫人の “Uncle Tom’s Cabin” が出ていますね。これはかならずしも子どもの文学とは呼べないという面もありますが、ご存知のように、黒人奴隷トムの感動的なすがた――、どんな迫害にも屈せず、愛と信仰と忍耐を見失うことのない、寛容な忍従のすがたを感動的に描いた作品。奴隷制度の廃止を主張し、その解放のための南北戦争の気運をもたらしたとされる作品で、リンカーン大統領の奴隷解放宣言以上に影響力は大きかったといわれます。
 にもかかわらず、なぜマーク・トウェインがまた改めて同じ問題を書いたのか。ストウ夫人(ハリエット・ストウ、1811~96)は、神学者の娘として生まれ、聖書の文学を教える牧師と結婚した人。いわゆる “ハイソ” な人で、その主張も、どこか、市民のもの、働く人たちのものではなかったということではないでしょうか。トムの不自然なほどに寛容なすがたは、白人にとって都合のよい黒人像を示すものだったのかもしれません。アメリカがその誕生以来抱えている重たい社会問題、根深い社会悪を感傷に流しているとの批判は、ある意味では当たっているかも知れません。遠い東海の小島に生きるわれわれには考えおよばない深い問題、いまもって解決しない問題がそこにはあるようです。


「トム・ソーヤ」の背景にある南部問題

 地域でおこなっている「ふれあい読書会」では、先日、W.フォークナーの作品を語りました。ここ数日はアメリカのDeep Southの問題、――南北戦争のあとの荒廃と、そこで失われた南部独自の文化・伝統、それでもなお失われることのない南部の誇り、それと同時に宿命的に背負う自らの矛盾と罪=奴隷制度――偏見と差別、悪徳と堕落と暴力を生む特異性、陰惨さと明るさがひとつに交じり合う世界…について考える数日でした。わが国で出版されている多くの「トム・ソーヤ」では、そこがきれいさっぱりと削ぎ落とされている部分ですよね。文学というときには、そういう真実の部分もきちんと見ておくセンスがないとな~、と、ふと思ったものです。
 ごく少数の南部貴族の大地主、それに、大地主に酷使される貧しく無教養な白人たち、そしておびただしい数の黒人奴隷たちで構成されるその社会。これって、「勝ち組」「負け組」がいわれるいまのこの日本の社会、どんどん格差の広がる社会とそんなに違っていないようにも思えました。〔To: cndさん〕

Mississippi Rv. セントルイスにて
  

Posted by 〔がの〕さん at 16:50Comments(0)TrackBack(0)名作鑑賞〔海外〕

2012年02月09日

F/トルストイ「エメリヤンと太鼓」の秘密

「エメリヤンと太鼓」の秘密
エメリヤンと、捨てられるもの一切を捨てたトルストイと

 ロシアの民話の森の世界に子どもたちを連れていって遊ぼう、と発想したとき、ちょっとむずかしいかも知れないがどうしても一つ入れたかったのがトルストイの作品。
 ご承知のように、レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイは、数かずの名作を書いた大文豪であるとともに、ガンジーと並んで、史上最大の思想家と呼ばれることもあり、「人生の教師」として四海に認められている偉大な人物。2011年はこの作家の没後100年でしたね。
         
 

80歳のトルストイと、右は
晩年のトルストイの秘書役だった三女のアレクサンドラ


 トルストイの代表作「戦争と平和」や「復活」「アンナ・カレーニナ」をこども向けのおはなしCDに入れるのはもちろん無理。でも、それらで語られているトルストイの思想(の一部)を集約的にあらわしている作として、故・水野忠夫先生たちといっしょに頭をかかえ、一所懸命考えて選んだのが「エメリヤンと太鼓」(原題は「作男エメリヤンと空太鼓」)でした。

 「復活」を読んだ人なら、主人公のネフリュードフにトルストイのおもかげを重ねたことでしょう。あるいは「戦争と平和」のアンドレイ公爵にその人を見た人もいるかも知れません。「アンナ・カレーニナ」ではリョーヴィンがトルストイ自身を映しているのかな。永遠の生命の道を探るこの登場人物たちのこころの葛藤、魂の彷徨、知性のはるかな旅で行き着いた先で見つけたのは、現代生活のうすっぺらな虚偽であり、はかなさ・むなしさであり、そこを突き抜けたところで見えた「全人類との抱愛」「真理と実生活との調和」でした。

 「エメリヤンと太鼓」に戻して言うなら、つまらないことでいちいち怒るな、ということであり、悪に抗するに悪をもってするな、暴力に抗するに暴力をもってするな、という教え。
 きょうのこのときでさえ、世界のいろいろなところで戦争、紛争がおこなわれています。たとえば、シリア政府軍による市民の虐殺など、このところ毎日、テレビやラジオで繰り返し報じられていますね。気になってもわたしたちには何もできませんが、国連安保理でさえどうにもならず、たとえいくら世界じゅうから大量に調停のための軍が動員されようと、軍隊の武器による暴力をもって抑えつけようとしたら、互いの憎しみは増すばかりで、けっして解決しないであろうと思われます。それでなくてさえ、ここ2~3日、子殺し・親殺しと、人を無差別に殺傷する事件が西で東で、わたしたちのすぐ身辺で頻発しています。命がそこまで軽くなっていることに愕然とさせられます。
 こんなとき、トルストイ(ガンジーも)は言います。憎しみを去って、愛をもって向かい合い、相手を助け、奉仕せよ、と。暴力、強制、流血、争闘、階級制度……、そういうもののない新しい世界の創造の理想のため、1世紀も前から苦闘していた人、トルストイ。
        

農場にたつトルストイ、77歳


 生むことのほんとうの苦しみをつうじてもうけた子どもにしてはじめて「わが子よ!」と呼べる。ひたいに汗してかち得たパンにしてはじめて「わがパンだ!」と喜んで受けとめることができる……。そうした思想に立って、名門の大富豪でもあった大作家は、水汲みもした、薪割りも靴づくりもした、泥まみれになって大工仕事も農耕の作業もし、何でもやりました。農奴の子どもたちのために学校をつくり、教育を施しました。下層の農民の生活のあいだでようやく探りあてた世界観が、愛と無抵抗と自己犠牲の思想であり、その観念と実生活を調和させるのがトルストイの生涯をかけた戦いでした。

 その晩年、伯爵とか名門の大地主という階級を捨てます。富を捨て、ヤースナヤ・パリャーナの広大な家を捨て、私有する一切を捨て、愛する家族さえ捨てて、家出します(このへんは、わたしにとってのもう一人の師、良寛さんの生きかたが思い出されます)。自分の生涯の最後の幾日かを、完全に自由に、孤独に、誰にも煩わされないで静かに生きたいとして出奔。1911年11月、ロシアの片田舎の、ある寒村の駅スターポヴォ(現在は「レフ・トルストイ駅」と改名されているとか)で高熱を発し、駅長官舎での1週間の病臥ののち、7日払暁、肺炎のために他界します。

 さて、すべてを捨てて孤りになって、「全人類との全き抱愛」の理想は、この大作家のなかで完結したのでしょうか。

 とんでもありません。それこそが、わたしたち、そう、わたしたちにつづく子どもたちに投げかけられた課題なんだと思います。むずかしいことですね、これ。だから、しっかり「エメリヤンと太鼓」のはなしをよく読み、考えていただきたいのです。
 ついでにいわせてもらうなら、読んでもらいたいなあ、これらの大作の一つでもいいから。プーシキンの娘のマリアを外見上のモデルにしたというアンナ・カレーニナ、ソフィア夫人の妹のタチヤーナ・クズミンスカヤがモデルとされる「復活」のカチューシャ、「戦争と平和」のナターシャ…。彼女たちの魅惑とその生きかたにもふれてもらいたい。【to: Sさん】


 子どもをヤワな、自己中心のひ弱な人間に育てあげようと思うなら、それはいとも簡単です。口に甘いものばかり、柔らかいものばかりを食べさせたらいい。欲しいとねだるものがあったら、すぐ与えるようにしたらいい。J.J.ルソーのことばですね、「子どもをスポイルするのは簡単だ、彼らが欲しがる玩具を全部買い与えるがよい」というのは。
 しかし、ちっとはこころの強い、自分で考え、自分で決める力のある人間、相手の気持ちのわかる人間に子どもを育てたいと思ったら、ときには骨の太い、カチッとして歯ごたえのあるものを与えるべきだろう……、というようなことは、子育て経験の豊富なひとなら、十分ご承知のこと。
 ときにはちょっとしたケガをすることもあろうかも知れませんが、その丈を越えた、少し高いものにとびつく挑戦をさせなければなりません。「エメリアンと太鼓」はそんな意図、そんな願いをふくんで編集制作されたものです。【to: Yさん】


  

Posted by 〔がの〕さん at 10:22Comments(0)TrackBack(0)名作鑑賞〔海外〕

2012年01月06日

J/『吾輩ハ猫デアル』初版本

『吾輩ハ猫デアル』初版本、
      一大奇書にみる漱石像


 12月9日、夏目漱石は歿しています。1916年のことですから、95年経ったということですね。もうすぐ没後100年。このところ、森鴎外の研究書をあれこれ読んでいるなかで、無意識のうちに夏目漱石と比較している自分に気づきます。名実ともに近代の日本文学を代表するふたり。


マダガスカルジャスミン


 先月のはじめころでしたか、漱石の『吾輩ハ猫デアル』を読みなおしました。『坊っちゃん』とともに国民文学と呼ばれるほどポピュラーな作品。日本じゅう知らない人はいませんね。でも、ちゃんと、これ、読んでいますか。
 ずっとずうっと以前に読んだときとはぜんぜん印象がちがうんです。現代かなづかいに直されたもので読んでいたわけですが、今回は初版本の復刻版。中村不折が装丁したり挿し絵を描いたりしています。途方もない懲り方のされた3巻の美本。ゴールデンギルトトップのアンカット・エッジス、つまり本の束と小口の部分には金が施され、手ざわりよろしい用紙を8ページごとにペーパーナイフでカットしながら読んでいくというもの。ええ、豪華です。ぜいたくな気分になりますねぇ、たかがヒマジンの読書ですが。
 ところが、どっこい、これは明治文壇の一大奇書ですなあ。いや、高等落語というか。軽快洒脱な滑稽もので、漢語の警句に満ち、行分ハキハキとしてヒリリと人を刺すというものながら、多少は古語・漢語には通じているはずのわたしにも手におえない難物です。四つ五つの辞書を脇におきながらの読書。え~~っ、こんなだった!? 誤字もある、誤植もある。因みに、短文をいくつか拾ってご紹介しましょう。もちろん、ルビなんてふってありません。〔  〕はわたしの読み。間違っていたら、ごめんなさい。

  無事に消光罷り在り候間、乍憚御休心可被下候 〔…はばかりながら、ご休心くださるべくそうろう〕

  雑ぜかへしてはいかんよ 〔まぜかえしては…。雑の字はパソコンでは出てこない旧字〕

  今日は無據處差支があつて出られぬ 〔よんどころなきさしつかえがあって…〕

  彼等鈍瞎漢は始めて自己の不明を耻づるであらう 〔彼らどんかつかんは…はずるであろう〕

 瞎漢は、禅のことばで、“めくらやろう”といったほどの人を卑しめていう語。鈍はそれを強調する接頭語ですね。百姓を「どんびゃくしょう」と云ったりすることもある、あれです。

  偖此原理を服膺した上で時事問題に臨んでみるがいゝ 〔さて、この原理をふくようしたうえで…〕

 服膺(ふくよう)は、心によくとどめて忘れないこと。

  會ま吾妻橋を通り掛つて身投げの藝を発表し損じた事はあるが 〔たまたま、吾妻橋を…〕

  十年一孤裘ぢや馬鹿気て居りますなあ 〔十年ひとこきゅうじゃ…〕

 孤裘(こきゅう)は、古代中国の斉の宰相の晏平仲(あんへいちゅう)が1枚の狐の皮でつくった皮ごろもを30年も着つづけていたという伝説にもとづく。

  吾輩を目して乾屎橛同等に心得るも尤もだが 〔吾輩をもくしてかんしけつどうとうに…〕

  乾屎橛(かんしけつ)とは、どうも漱石さん、お品がよろしくないですなあ。拭いたあとまだ不浄のついたまま乾いているクソカキベラのこと。今みたいにトイレットペーパーはないもんね。

  もうひとつ、珍野苦沙彌先生が奥さんに向かって投げつける有名なことば、「オタンチンパレオロガス」。意味もわからず、かつてこんなことばで悪口を言って友だちをいじめた経験、…じつは、あるんだなあ。今ごろ謝っても遅いかしれないけど、うん、ごめん、ごめん。意味、やっとわかったよ。ローマ帝国の最後の皇帝コンスタンチン・パレオロガスにひっかけたシャレだったんだね。

 ———こんなところでやめておきましょう。どうですか、子どもでも楽しく読めると思われていた“吾輩ネコ”、どうしてどうして、高校生、いや、大学生でもちょっと歯が立たないのではないでしょうか。それにしても、漱石については、知っているようでいて実はあまりよく知らないことばかりだと気づく。
 代表作の一つ『三四郎』に登場する魅力的な女性、美彌子という女性、あのモデルが平塚らいてうだったなんて、ご存知でしたか? 良妻賢母教育のお茶の水の“海老茶式部”であり、志操堅固な禅学令嬢たる平塚明(はる)。のちに「元始、女性は太陽であった」と「青鞜」で宣言、日本の婦人解放運動の第一歩を画期的に築いたあの女性ですが、それより以前、22歳のとき、とんでもないスキャンダルを起こしますね。作家のたまご、森田草平と那須塩原温泉の尾花峠の雪のなかで心中未遂。とびきりのエリート同士による「痴に倣へる未曾有の事」として世間で大騒ぎになります。師である生田長江が、消防隊や警察に保護されたふたりを引き取りに塩原まで行き、事件の後始末に奔走、結局、森田草平の身柄は漱石のあずかりとなります。
 バカな火遊びをしたもんだ、とさんざん森田を叱った一方、「で、どうだったんだい、あの女は…」、と根掘り葉掘りらいてうの、そそられるような「女」の味を探るおヒンよろしくない漱石。ピーンとはね返るような美彌子の堅さ、姿勢の高さと輝くような知性。う~ん、なるほど、あれはたしかにらいてうのコピーかもしれない。自分で『三四郎』のなかに美彌子を描く一方、森田にもチャンスをつくってやる。そのときの経験を細かに書き朝日新聞に連載した『煤煙』が森田草平の出世作になっています。

 さてさて、身分、格式の高い家の長男として生まれ、たいせつに育てられた森林太郎。俗悪な立身出世の欲にはまったく薄く、身分にも位にも社会的な地位にも役せられないながら、それでも次第に出世し、いちじるしく立身を遂げた鴎外。かたや、人生に迷い多く、地位や俸給や生活費のことでたえずあくせくしていた漱石。その生まれ方、育ち方をこんなふうに書いていることを知って、またまたびっくりしました。

 「私の家も侍分ではなかった。派手な付合をしなければならない名主といふ町人であった。私の知っている父は禿頭の爺さんであったが、若い時分には、一中節を習ったり、馴染の女に縮緬の積夜具をして遣ったりしたのださうである」

 いったい、幼児期はどんな育てられ方だったのか…。
 「私は両親の晩年になって出来た所謂末っ子である。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいふ話が、今でも折々繰り返されてゐる。単に其の為ばかりでもあるまいが、私の両親は私が生まれ落ちると間もなく、私を里に遣ってしまった。其の里といふのは、無論私の記憶に残ってゐる筈はないのだけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしてゐた貧しい夫婦ものであったらしい。私は其の道具屋の我楽多と一所に小さい笊(ざる)の中に入れられて毎晩四谷の大通りの夜店に曝されてゐたのである。それを或晩、私の姉が何かの序に其処を通り掛かった時見付けて、可哀相とでも思ったのだらう、懐に入れて宅(うち)へ連れて来たが…」
 「私は何時頃其の里から取り戻されたかは知らない。然しぢき又或る家へ養子に遣らされた。それは慥(たしか)私の四つの歳であったやうに思ふ。私は物心のつく八九歳迄其処で成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起こったため、再び実家へ戻るやうな仕儀となった」

 大文豪の幼少期がこんな暗い悲惨なものだったなんて、知らなかったですねぇ。漱石死して間もなく100年、わたしがここで書いたことが尊敬すべき大文豪の威徳をしのぶにふさわしいものだったかどうかあやしいが、何となく書いていたらこんなものになってしまいました。気にさわったらお許しあれ。そして、願わくばその才智の一欠片でも分けてもらえぬものか、と。



  

Posted by 〔がの〕さん at 12:48Comments(0)TrackBack(0)名作鑑賞〔国内〕

2011年12月05日

P/宮澤賢治、夏目漱石、中原中也の輝き

宮澤賢治、夏目漱石、中原中也の輝き

  >唐突な質問ですみませんが、夏目漱石の「二百十日」と宮沢賢治の「注文の多い料理店」は、何だか似ているように感じるのですが、どちらかが、影響を受けているとか、その時代の特徴的な作風とか、なのでしょうか? ご存じだったら教えてください。〔MKN〕


紫  苑


  ははあ~、「草枕」とともに、MKNさんのお住まいの熊本を舞台にする漱石の作品ですね。細かなことはすっかり忘れてしまいましたが、「二百十日」は7~8年前に川崎市のほうでやっていた読書会で読み合った作品です。「草枕」とはだいぶ趣きが違い、ふたりの男のヤジキタ漫才といったタッチで書かれた、軽妙洒脱な会話体の短篇作品でしたね。温泉宿に来たふたり、浴衣すがたのまま阿蘇山に登りますが、噴煙に巻き込まれ、二百十日の雨と風にあって道に迷い、胸まである草のなかをさまよううち穽(あな)に落ちてさんざんな目にあうというはなし。そちら熊本では愛されてよく読まれている作品ですか。
  「注文の多い料理店」との影響関係ということでは、わたしはこれまで考えたこともないのですが、もしあったとすれば、先ほど年表を見たところによりますと、「二百十日」のほうは1906年の発表、「注文の多い料理店」は1924年に1,000部を自費出版したとありましたから、あとの宮澤賢治が影響を受けたことになりますね。たしかに、漱石はすでに人気作家、新聞小説としてどんどん作品を出していた時期ですから、賢治もそれを読んでいた可能性は十分に考えられます。しかし、どうでしょうかねぇ、「二百十日」には江戸の草双紙のような軽さがあり、金持ちや華族たちが跋扈する世の中に対する庶民的な悲憤慷慨はありますが、それは酔っ払いの愚痴というに近く、温泉につかりながらの無責任なヨタばなしのような味があって、社会批評というには浅いように思いますけど。
  一方の「注文の多い料理店」には、自然を軽視する人間の傲慢不遜さをふたりの青年紳士、イギリス風に洗練されていることをハナにかける都会人種に対する明確な批判があるように思いますね。かなり意識的な社会批判を感じます。どちらが優れた作品か、そこには違った評価の軸があるでしょうけれど。


継子の尻ぬぐい


  宮澤賢治と夏目漱石との影響関係については、後日、改めてもうちょっと丁寧に探ってみるとして、じつは、先日、神奈川県立近代文学館の「中原中也富永太郎展――ふたつのいのちの火花」を見てきました。きのうの狂ったような荒天とはうってかわって、気温21℃、横浜の海からの心地よい風を浴び、バラ園の香りに包まれて、遠い青春の日の甘酸っぱい記憶に浸ってすごした半日。
  この展示を見て、アッそうか、と膝をたたいたのは、中原中也の詩のいくつかに宮澤賢治のイメージが乗っている、ということ。あまり知られていないのですが、「修羅街挽歌」という中也の詩を見て、あ、「春と修羅」を読んでいるな、とピーンとくるものがありました。

    暁は、紫の色/明け初めて/わが友等みな/我を去るや
    否よ否よ、/暁は、紫の色に/明け初めて
    我が友等みな/一堂に会するべしな。
    弱き身の/強がりや怯え、おぞまし/
    弱き身の、弱き心の強がりは、/猶おぞましけれど
    恕(ゆる)せかし/弱き身の/さるにても
    心なよらか/弱き身の、心なよらか
    拆(さ)るることなし。
 

  この早熟な天才は、“ダダイスト”をみずからに認じ、火のように烈しい偏執で自己主張するものですから、周囲には、ちょっとつきあいきれないハナモチならぬやつ、というものがあって敬遠され、一人去り二人去り、友人に見放されて孤独をかこつ時期がありました。人の話には耳を傾けない傍若無人ぶり、自己撞着ぶりだったようようですね。自業自得か、孤独の痛みにさいなまれていたときに書かれた詩篇がこれです。“修羅”という印象あざやかな語の発想は賢治か萩原朔太郎のもの。書かれている内容においてはあまり通じるものがあるとは思えないのですが、まず「春と修羅」と無関係とは考えにくい。
  このほかにも、影響といえそうなものに、「星とピエロ」という詩稿があるし、中也にはめずらしい童話作品「夜汽車の食堂」という草稿、これなどはどうみても「銀河鉄道の夜」を知らずに書いたとは思えませんね。

    「雪の野原の中で、一條のレールがあって、そのレールの
    ずっと地平線に見えなくなるあたりの空に、大きなお月様が
    ポッカリ出てゐました」


  中原中也はどこで宮澤賢治を知ったか? もちろん直接会ってはいません。会ったとしても、賢治と親しい関係がつくられるとは考えにくい個性同士。つまり、「春と修羅」を中原中也に紹介したのは、富永太郎のほかにはいないでしょう。24歳の若さで惜しまれて夭逝した、中也より6歳年上の詩人であり画家、新鮮で硬質な象徴詩を書いた天才でした。ヴェルレーヌ、ボードレール、ランボーらのフランス近代詩を紹介して、中原中也をダダイズムの狂信のわだちから抜け出させたほか、世界の新しい詩の世界を切り開いて見せ、中也を独自の抒情詩の世界へ引き出した人物。その「新しい詩」のひとつに「春と修羅」があったことはほぼ間違いない。
  中也は17歳、すでに長谷川泰子と同棲しているときのふたりの天才詩人の出会い。それは、はげしく嫌悪し、反発しあいつつも、互いの才能を認めあわずにいない、不思議な友情でつながっていました。

  あ、ここは似ている、ここはこちらをまねている、盗用しているなどと詮索するのは好きではないですが、知性と知性、感性と感性が本質的なところでふれあえば、熱い火花がほとばしり、どうしたって影響関係は生じずにはいないでしょうね。それでなくてさえ、たとえば日本神話とギリシア神話に共通するものがいくらでもあることにみるように、時間や空間をはるか隔てても人間存在の本源には太くつながっているものがあり、絵画も音楽も文学もあらゆる芸術が古来よりそこをひたすら表現してきたのだ、とはいえないでしょうか。時代を超え世紀を超えて残っていく傑作、人類の宝には、いつの場合も共通して、人間とは何か、存在の意味は何か、の問いと追求がありますね。


  >「二百十日」は大学の「新熊本学」という教科で取り上げられて読んだものでしたが、「弥次喜多道中」を彷彿とさせるというご指摘ももっともですね。私は、阿蘇の草原で迷子になったあたりが、山中で迷子になる「注文の多い…」の二人に似ているような気がしたのですが。〔MKN〕

  はい、MKNさんが似ていないだろうか、と見たのはそこだろうとは思っていました。阿蘇の草千里。九州でのキャンプで産山や湯坪に行ったことがあります。背丈ほどもある草の原を漕ぐようにして右往左往する感覚を経験したことはありませんけれど、方向感覚も失って迷い歩き、疲れはてたすえに、ふと目の前に見たのが、宮澤賢治の描く途方もないレストランだったり、「雨月物語」の浅茅ケ宿だったり、昔ばなしの「すずめのお宿」だったり…。そうした幻想と人間の根源的な不安を高等落語のように語ってみせる漱石って、やはりタダモノじゃないですね。
  

Posted by 〔がの〕さん at 12:12Comments(2)TrackBack(0)詩、短歌

2011年11月17日

F/バルザック「谷間の百合」

バルザック「谷間の百合」

 こころの闇に咲く清純な大輪の花、崇高な愛のすがた

「谷間の百合」やっと読み終えました。「ゴリオ爺さん」のパリの社交界とは正反対の息苦しいほどの清い愛。モルソフ夫人の心の葛藤。そして愛に死ぬ衝撃。パリの社交界での成功のレールを引く夫人。そこに世俗的な愛が忍び寄ることを恐れながらも愛するフェリックスをパリに送り出す気持ちを思うと、それほどまでに深い愛だったのだと最後に気付きます。読みにくいと思いながらも惹かれるバルザックの作品です。〔Pwm さん〕 
    ----------------------------
すごい! さすが、ですね。バルザックの名を知らない人はなくても、いまどきこの大河小説をひもとこうなんて人は、めったにいません。読書をよくするとされるみなさんのなかでも、最近『谷間の百合』や『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』といったあたりを読んだという人は、たぶんいないはず。薄っぺらなもののうえで幼児顔して滑っているだけでなく、こういうものをじっくり読んでいただきたいですがね。だって、こういうものを読んだあとには、自分が新しくなったような、自分がひとつ確かに高められたような、そんな悦びがありますよね。新書などで表面的なその場限りの簡易知識をいくら詰め込んでもぜったいに得ることのできない、感動の深さがここにはあります。うわっ面の知識を追うことのむなしさを知るときでもあります。



『谷間の百合』――。もうずいぶん前に読んだもので、忘れてしまったことばかりですが、そうそう、バルザック自身を想わせる主人公のフェリックス。百合の花に譬えられる美しい貴婦人モルソフ夫人(アンリエット)。ふたりはある舞踏会で偶然に出会い、青年は踊ったあと思わず夫人の匂やかな肩に顔をうずめてキスをしてしまいます。愛情薄い家庭で育ち、星を眺めることで自分を慰めることしか知らない青年にとって、伯爵夫人は生涯、忘れることのできない人となっていくんですね。

昔、これを読んだときにわたしの胸板を突き破った衝撃の大きさは、わたし自身のあり方にあったでしょうか。どんな努力にもかかわらず、ことがうまくいかないとき、周囲のだれにも目を向けてもらえないようなとき、思惑がいつも外れるとき、才能や実力の真価をどこにも発揮できないようなとき、自分のことばが相手にどうしても届かないとき、胸のなかにある思想がだれにも評価されないようなとき…。

そう、このごろ折あるごとに考えているギリシア神話のほうから言うと、タンタロスのような状態にあるとき、フェリックスは深い孤独と疲弊感と劣等意識のなかで崇高なこころに出会ったんですね。タンタロスというのは、ゼウスの子で、黄泉の国の湖にあって、顎のところまで水に浸されながら、焼けつくようなノドの渇きを癒すことができないでいる哀れな存在。ヘラクレスが12の難行と戦っているとき、スティクス川を渡ったハデスの国(黄泉の国)で目にした凄まじい光景で、水を飲もうとするとサ―ッと水は退き、木の実を摘もうとするとピイーンと枝が退き、永遠の飢渇に苦しみつつなお生きていかなければならない男。ツキに見放されたおれって、まるでタンタロスだ、とまいってしまっていたときに出会った気高い女神。アンリエッタは、フェリックス(あるいは、わたし)には、そんなふうに見えたものです。つまり、人生の暗い谷間の底のようなところから見えた、あまりにも神々しい太陽、匂いやさしい大輪の花。

『ゴリオ爺さん』を読んだときに調べたことによりますと、ふたりの子持ちと書かれているモルソフ夫人のモデルと思われるベルニー夫人は、当時(バルザック23歳)、45歳、9児の母親でした。バルザックはパリの屋根裏部屋にこもって作家修行をしているときで、まだ誰にも評価されていませんでした。で、ベルニー夫人とその近親者たちに資金を出してもらって、バルザックは自分で出版業をはじめます。もちろん、商売はうまくいきません。その間にも、高級娼婦オランプ・ペリシエやカストリ公爵夫人との関係が生じ、そのつど破局します。ポーランドのハンスカ夫人や、バルザックの子をなすことになるマリア・デュ・フレネーとの関係、私生児をなすギドボニ・ヴィスコンチ伯爵夫人…と、まことにおさかんです。それでも、36歳、再びベルニー夫人との交際がはじまり、その息子の死を機にふたりの関係は終局を迎えます。

『谷間の百合』は壮大な恋愛小説として読まれるのが普通ですが、肉と霊の葛藤のなかで展開する崇高な愛の行方もさることながら、自然をうつすバルザックの筆力の冴えと、人間を観察するその目の鋭く澄んでいることが印象に深く刻まれる作品でしたね。
いまのわたしは、8月中旬まで、地域のさまざまなことに追われて本を読む時間がほとんどなく、それが大きな悩みです。ピンチです。そんななか、Pwm さんとこうした感動を共有できることを、ほんとうにありがたいと思っています。
  

Posted by 〔がの〕さん at 16:11Comments(0)TrackBack(0)名作鑑賞〔海外〕

2011年10月17日

✦清少納言 VS 紫式部

清少納言 VS 紫式部
     王朝世界のイヌ族とネコ族

平成の才媛たるみなさまに問う、…あなたは清少納言派? それとも紫式部派?
遠い平安時代中期に生きたふたりの才女ですが、この機会にその生年・歿年を調べてみました。調べましたが、正確なところはわかりませんでした。諸説ありますが、それをまとめますと、清少納言は966年ごろに生まれ、1021~28年に死去しており、紫式部のほうは、970~78年に生まれ、1019年または1931年に歿したとされています。ほぼ同時代人ですが、清少納言のほうがわずかに年上だったということでしょうか。
今回は、このふたりの才女をバトルリングに乗せてみました。



 > 清少納言は、見捨てられ、わびしくなっていく中宮定子のサロンを、少しでも楽しげにしようと一人踏ん張った女性です。そのため、さがったあとは発狂し、かなりつらい最晩年だったようです。人間は豊かであれば「あわれ」を説き、わびしいからこそ「をかし」を説くのだな、と思ったものでした。〔Dさん〕

そうそう、『源氏物語』が「あはれ」の文学といわれるのに対して、清少納言の『枕草子』は「をかし」の文学といわれます。わびしいから「をかし」を説いたとするには、ちょっと異論を感じますが、それはあとのことにして、万華鏡のように多彩で、明るく奔放な世界をここに描いていますね。藤原道隆の長女に生まれ、一条天皇に入内していた中宮定子。その後宮には、選り抜かれた才媛が集まっていました。そのなかでもとび抜けた才(ざい)を発揮したのが清少納言。「香炉峯の雪」のエピソードが有名ですよね。
というわけで、Dさんはどうやら清少納言ではなく、紫式部ビイキのご様子。はい、それならディベートです。わたしは清少納言の側に立ちましょうか。

清少納言の後宮への出仕は28歳のとき。中宮定子は17歳でした。中宮定子のおぼえめでたく、彼女はこのサロンの花形として、華やかな女房生活をし、後宮全体をまとめつつ中心的に活躍していたようです。
隠微な嫉妬と対抗心もあって、紫式部からは「したり顔にいみじう侍りける人」と評され、好印象を与えていなかった模様。陰謀と策略の渦巻く、煩わしく複雑な当時の政治世界と対人関係のなかをじょうずに泳ぐ術を知っていた紫式部とは違い、本質的に政治性のない人。物事にあまり拘泥しない、陰湿ではない、こころに裏オモテのない、底抜けにお人よしな、気性の美しい人。高度にリアルな人生観照をもつ紫式部のような大人の知恵を持ち合わせなかった女性でした。「したり顔」なんて云われる筋合いはなく、すてきじゃないですか、こんな女性。そのきたないことば、そっくりそのまま紫式部にお返しすればよかったのに。もっとも、それをしないのが清少納言の奥ゆかしさであり自信でもあったのでしょう。

紫式部は『源氏物語』の末摘花のモデルとされることがありますね。クモの巣の張る落ちぶれた宮家の姫とされ、青白い不健康な顔に赤い鼻という不美人。光源氏ともあろう人がどうしてあんなパッとしない女を…、と噂される女性。まあ、不美人ながら情がこまやかとされています。しかし、末摘花なら、まだしも控えめということを知っていますよね。紫女さんにはそれがない。それくらいですから、どうやらこころの底に暗いコンプレックスをもっていたようで、嫉妬深く心根がうすぎたない。タチがわるいことに、今をときめく権力の側にいるので、傲慢不遜。自分の目のとどくところに見目麗わしい、評判のいい、すぐれた女性がいると知ると、もう我慢ができない。片っ端からこきおろしていたようです。ときどきわたしたちの周囲にもいますよね、高い教養を持ちながら、カサ高く可愛げのないそんなひと。

ひどいのにこと欠いて、和泉式部のことさえ「蓄積のないひと」とケチをつけている。「その和歌はパッと見たところはまあまあいいようだけれど、所詮は、たいした学問のないもののつくった、空っぽな歌」ですって。もう、偉そうに! 冗談じゃありません。この時代を生きていた女性のなかで和泉式部ほどモテた女性はほかにはおりません。情がこまやかで、学問の底も深く、魅力的で、上品な色香をただよわせ、このひとといっしょにいると、何かいいこと、楽しいことがありそうな…。語るに十分足るひとですよ。「ものおもへば沢のほたるもわが身よりあくがれいづるたま(魂)かとぞおもふ」なんて歌をもらったとしたら、たいがいの男はまいっちゃうでしょうね。「黒髪のみだれもしらず うちふせば まづかきやりし人ぞこひしき」、恋の絶唱です。人間にツヤがあるというか、相手を思いやるやさしくあたたかい愛があります。天性の愛の詩人といえないでしょうか。
天性の詩人ということでいえば、和泉式部以上にわたしが惚れている、いや評価している女流歌人がいます。赤染衛門。長文になりましたのでその歌についてはふれませんが、なんとまあ、あきれたことに、紫式部はこの赤染衛門まで口ぎたなくくさしている! もう人格を疑うね、紫女さん。

あの時代の女性たちが今の時代に生きているとして、わたしがデートに誘いたいのは、まあ、鼻っぱしが強く根性曲がりの紫女さんじゃないですね。和泉式部か清少納言。わたしじゃあチト役不足だということはこの際別にして、うん、デートしてみたいね~。もっとも、清少納言は、時間ぎりぎりにやって来て、息せき食事をしてコーヒーを飲んで、ひとりでしゃべりたいだけしゃべって、「あっ、わたし用事思い出したわ。帰らなくっちゃ」と、さっさと帰ってしまうようなタイプ。才気ほとばしり、楽しい話題をたくさんもっていて退屈しないのですが、…それも、ちょっとねぇ。その点、和泉式部はそうじゃない、こちらの気持ちをよくわかって、最後の最後までつきあってくれそう。いいなあ、こんなひと。抛っておけないよ、男なら。

995年4月、道隆が死亡します。その際、権力は道隆の子の伊周(これちか)には移らず、仕掛けられた策謀により、定子の叔父(道隆の弟)にあたる藤原道長に渡ります。これにともない、中宮定子も禁中を追われる身となり、苦境におちいります。
菅原道真に対する藤原時平、藤原道隆・伊周に対する藤原道長。『大鏡』で「才(ざえ)の人」の双璧とされた道真と伊周。そういう相手をうまうまと陥れた時平と道長は、表面は温雅ながら、じつは策謀に富む政略家の政敵。合理的な機略に富む油断ならぬタイプですね。こすっからく、権力をねらって陰に陽にいやがらせと圧迫をかけていた、わたしにはどうにもいけ好かない存在たる道長の、そのむすめ、のちの上東門院彰子に仕えたのが紫式部。百戦錬磨のすれっからしの、にくらしいほどしたたかな女。世に天才はわれ一人とでも思っているのでしょうか。その点、白痴のようにストーンと抜けたところもあって、プラス指向で、無垢な少女のように明るい清少納言て、ね、可愛いじゃないですか。

定子の兄弟たる頼みの伊周の失脚につづき、1000年、定子は出産のあと24歳であわただしく死んでしまいます。清少納言も35歳で後宮を退くことに。こののち間もなく『枕草子』は成立していますね。激動の政治的情勢のなか、この作品のもつ明るさはちょっと異様かも知れません。ですが、滑稽なものを滑稽といい、おかしいものをおかしいといっている率直さ、直截さがこのひとの味でしょう。ですから、書いているものはちっともむずかしくありません。政治の暗い影などありません。紫式部に見る大人の知恵などぜんぜん持ち合わせなかったかのようにさえ見える、そのカラリとしたこだわりのなさは、清少納言の生来のものだったかも知れませんが、池田亀鑑博士は、この随想はもともと、中宮定子の遺子である一品宮脩子(ゆうし)という内親王の姫女に捧げる中宮定子賛美の書であったとしており、そういうこともあって暗いむずかしい部分は避け、「をかし」に終始したと考えられます。

Dさんが書いてくださっているように、彼女の晩年は不遇で悲惨なものでした。その落魄ぶりについては『今昔物語』や『古事談』に見られるそうですが、わたしはそれについてはよく知りません。ひとつだけ『古事談』で語られる伝説をご紹介します。
才媛の名をほしいままにした清少納言ですが、のちには零落してみすぼらしい廃屋に住んでいました。あるとき、若い殿上人たちがひとつの車に同乗してその家の前を通りかかります。見れば、いらかは破れ、土塀は崩れ、見る影もないていたらくぶり。「少納言無下ニコソナリニケレ」(あ~あ、清少納言もさんざんだなあ)と無遠慮に話している若者たち。それを清少納言が聞いていて、破れた簾(すだれ)をかき上げると、鬼形の女法師のような顔をつきだして「駿馬の骨をば買わずやありし」(死んだ馬の骨を買った人だってあるじゃないの!)と、中国の昔ばなし、燕王の故事を持ち出して云い返したとか。ここには「香炉峯の雪は?」と問われ、御簾を高くあげて中宮を感服させた清少納言の高い教養を示すエピソードがもじられていますね。

どうもご退屈さまでした。紫式部の側に立った反論を期待しています。


  

Posted by 〔がの〕さん at 12:00Comments(0)TrackBack(0)日本古典文学

2011年09月01日

J/ 「安寿と厨子王」と「おくのほそ道」

安寿姫は、死んだのち どうした…?
     「安寿と厨子王」と芭蕉の「おくのほそ道」

   荒海や 佐渡に横たふ 天の河

 知らないもののない松尾芭蕉の名句である。ちょっと時期をはずしたかも知れないが、この句がじつは「安寿と厨子王」の物語に深いつながりがある…、と云ったら、びっくりしませんか。
 俳聖・芭蕉は46歳の春、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。…」と風雲の思いに衝き動かされて(「片雲の風にさそはれて」)「おくのほそ道」の旅に発ちます。「風雲の思い」と書いてしまいましたが、当時は、ふっと思いついて、行きあたりばったりにできるような旅ではありませんで、さまざまな思惑と綿密な計画があったことはいうまでもありません。とりわけこの年、元禄2(1689)年は、芭蕉が生涯の師とあおぐ西行法師の歿後500年にあたります。師が歩いた陸奥(みちのく)の道を自分も自分の足でたどってみたいとする西行供養の巡礼行脚の旅であったことがうかがわれます。またそれは同時に、源氏一族の悲劇、頼朝に追われて陸奥に逃がれ、そこで果てていった義経主従を供養する旅でもありました。



 さて、芭蕉とその弟子の曾良の旅は、日光を経、白河の関をすぎていよいよ陸奥に。仙台、松島、平泉などをめぐったあとは日本海側へ向かいます。出羽三山を過ぎ、能因法師や西行にゆかり深い象潟(きさがた)へ出て、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠んで、日本海側の愁いをたたえた、悩んでうつむいているかの風情、うらむような風光をとらえています。ここがこの旅の最北端であり、ここから旅は最終コースへ向かい、日本海に沿って南へ西へ…。
 旧暦の七月六日、新潟を舟で出て荒川を渡り、今町に到着します。現在の直江津・上越市ですね。このあたりまでは、怖いような濃い青さをたたえ日本海の海原が吼え立てています。その海を隔てて、佐渡島が見えていた……はず。「荒海や…」の句は、この地に着いた翌日に催された俳席でつくられたもの。ところが、芭蕉にずうっと随行していた曾良があらわしている「曾良旅日記」によると、その日は一日じゅうはげしい雨が降りつづいたとあり、天の河など見える状態にはなかったことが知れます。おまけに、たいへんな暑さと湿気のため、かなり重い病気に陥り、不快に悩まされていたようです。持病の疝気と痔核が出たようですね。そんなときに書いたのがこの句。

 今わたしの手元にあるテキスト、久富哲雄博士の『おくのほそ道』(講談社)によると、

「眼前の荒海は、佐渡と本土とを隔てて、佐渡の流人たちは故郷の妻子を恋いこがれても逢うすべもない。今宵、牽牛・織女の二星が相会うという天の河を仰ぎながら、彼らはさぞ望郷の念にかられていることだろう、と述べて、親しい人びとと離れて佐渡をながめる越後路までやってきたわが身の旅愁を詠じたもの」

と解説しています。佐渡の流人たちの望郷の思いと結びつけたそういう鑑賞の仕方もあるでしょうが、わたしにはいまひとつしっくり来ない。どうしても、これが実景を詠んだものではないことがひっかかる。
 疲れはピークにあり、体調不良のこのとき、芭蕉のこころにはっきりとイメージを結んでいたのは、佐渡の流人のことではなかったろう。そうではなく、この地で広く語られていた「安寿と厨子王」の秘話であったろうと想像するほうが自然だ。

 このおはなしについては、改めて説明するまでもないことながら、念のため「説経節」からその概略をたどっておくと、奥州54郡の太守をつとめていた岩城判官正氏は、帝の勘気にふれて筑紫の国に流されます。その子どもの安寿姫と厨子王丸は、悲運の父を慕って、母と乳母(姥竹)とともに奥州から京へ向かいます。しかし、途中の直江津で人買いの山岡太夫にだまされ、母と子は別々の舟に乗せられます。だまされたとわかり、姥竹は悲しみのあまり荒れ狂う海に身を投げます。母は佐渡島へつれていかれ、両の目を泣きつぶしてしまい、鳥追いをしながら悲嘆の日々に耐えている。一方、安寿と厨子王は山椒大夫のもとに売りとばされ、奴隷のよう、畜生のようにこき使われる日々。厨子王はのちには仏の導きを得て立身出世を果たし、丹後の国守に任ぜられますが、それに先だち、安寿は、弟を山椒太夫の桎梏の地獄から逃がれさすため沼に身を投げて死に、追っ手の足を一時止めさせます。

 安寿姫のその貴い心根と勇気、健気さ、清い自己犠牲の精神をしのんで、直江津のまわりでは多くの伝説が生まれました。人買いの地というマイナスイメージを払拭したいとの土地の人びとの思いもあったでしょうか。なかでも、安寿姫は入水していのち果てたのち、銀色の竜に化身して空高く舞いのぼり、星になったと語られる話がよく知られています。
 ほんとうは雨にたたられて銀河などは見えなかったけれど、芭蕉は安寿姫の化身たる竜の銀色のうろこで飾られた星空をこころいっぱいに描いてあの名句をつくったのだ、といっても、あながち間違いではないように思うのですが、どうでしょうか。

 荒波を隔ててはるかな佐渡島へ渡る天の河の雄大な夜の川の流れと、安寿のどこまでも澄みわたるこころの風景と…。また、銀河の描く円弧なす壮大な流れは、佐渡にいる盲目の母のもとへ厨子王をいざなうために安寿が架けた橋である、というロマンあふれる説話もあり、芭蕉はこうした土地の人が語る安寿と厨子王の物語に思いを寄せてこの句をつくった。…わたしはそう信じているのですが。

 上越市には今も銀河をまつる習俗が残ってさかんにおこなわれており、荒川(関川)の川べりに短冊をつけた笹を数百本立てて七夕を祝ったり、それにつづき、七日後におこなわれる盂蘭盆会は、身についた穢れを洗い落とす禊(みそぎ)の行事として、ふたつの古くからの習わしをむすんで人びとは町をあげて大事に受け継いでいます。
  

Posted by 〔がの〕さん at 17:20Comments(5)TrackBack(0)名作鑑賞〔国内〕

2011年07月21日

F/ギリシア神話は女性をどう描いたか=2

水に流すこと、
   そしてまた、心の昇華と新しい蘇生と

   〔ギリシア神話/トロイア戦争のなかの女〕

 過去を水に流す。このことにおいて、日本人はとてもあっさりしているのでしょうか。制度がかわったら(トップの首がすげかわったら)、それまでのことは全部なしにしてしまう国民性なのでしょうか。それは、トップが間違いを犯さないときにはとても安心で簡単なことでしょうが、間違いを犯さないように監視する、ということがなく暴走したのが先の大戦だったのではないか、とも思えてくるのです。〔Dさん〕

 忘れる…、これは人間に天賦されたありがたい能力だとされています。ひとが心配ごとなく安寧に、自由に磊落に世を生きていこうとするときの、なかなか便利な武器かもしれませんね。
 しかし、歴史には、忘れていいことと、決して忘れてはならない歴史とがあると思います。都合の悪いことはケロリと忘れる。ところが、ひとたび屈辱を浴びせられたほうは、あっさり水に流してくれるなんてことはありません。ひとが受けた苦痛や辱めは、20年経っても30年経っても忘れられるものではありません。学校で問題の「いじめ」や、日本軍が満州につくった七三一部隊、そこでおこなわれた正視に余る生体実験の数々を挙げるまでもなく、わたしにもいくつかその覚えがあります。執念深い、いやらしいよ、といわれようと、おそらく死ぬときまでその口惜しさを忘れることはないでしょうね。加齢のなかで呆けて記憶を喪うようなことがあっても、それだけは忘れずに残っているだろう口惜しさ。



少し遠まわしにして、ギリシア神話のほうから、そのことを語っていいでしょうか。
 トロイア王国の王子ヘクトールに嫁したアンドロマケという女性。古代トロイア戦争の神話に登場する女性で、まず、父親と七人の兄弟をギリシア軍に殺され、母親もアルテミス女神の矢に射抜かれて死にます。さらに夫のヘクトールは宿敵のアキレウスとの一騎打ちで槍で仆されます。そのあとが眼も当てられぬ酷さ! 自分の死骸は父王プリアモスの手に渡し火葬させてほしい、と武士の情けでアキレウスに求めるが、復讐の鬼と化した敵はそれを一笑に伏し、その遺骸を軍馬にくくりつけて狂ったように疾走、土ぼこりのなか戦場をひきまわします。神をも恐れぬアキレウスの所業はのちに神罰を受けることになりますが。スカイア門の上からその惨劇を目撃していたアンドロマケは色を失い号涙し卒倒する。眼前にした夫の最悪の死に方。トロイアの命運は、オデュッセウスの奸計による「木馬」を待つまでもなく、事実上このときに尽きたといえるかもしれません。この戦争のなかで根絶やしにされて天涯孤独になった美しい王妃。望んだ自らの死は許されず、不幸はまだまだつづきます。王妃の座から女奴隷へと転落する運命へ。勝者のギリシアの戦利品として異国へ、東洋から西洋へ連れていかれ、苛酷な労役と、戦勝国の男たちに自由にもてあそばれ、宿敵の子を次つぎに産むハメに。屈辱と忍従の日々を「耐える女」に徹して蘇生の時期を待つ。迫害と辱めを受け、極限の生に耐えつつ、身を滅して屈し、従うことによってのちに生命の蘇りを果たすわけですが、これこそが「東洋の女の忍従」、西欧世界で生まれ育った人間にはない生き方と言えないでしょうか。

戦争に勝ったギリシア軍はトロイアにある限りの財宝と女たちを奪って分け合い、帰国します。王妃アンドロマケが分配されたのは、なんとまあ、ネオプトレモス。父と七人の兄弟、そして夫を殺した宿敵アキレウスの、その息子である男。この男がまたどうしようもなく惨いヤツ。トロイア落城のとき、ゼウスの祭壇に逃れた父王プリアモスを引きづり出し、情け容赦なく首を刎ねる。ギリシアに連れ帰ることになったアンドロマケ王妃につかつかと近づくと、王妃が胸に抱いていたヘクトールとのあいだの一粒だねのアステュアナクス、恐ろしさに震えるその幼子を母親の腕からもぎ取り、王城の矢狭間から投げ落とす。その可哀そうな死骸に衣をかけてやるいともも与えず、アンドロマケを船に追いたてギリシアへ連れ帰る。さらにネオプトレモスは、アンドロマケの義妹ポリュクセネー、美貌で清純なその乙女を、先に死んだ父アキレウスの鎮魂のための人身御供として、衣をはぎとり、ブスリッと刃の下で喉首を斬る。世に並びない可憐さをもつ乙女は血しぶきに濡れて死ぬ。戦争とはもともとそうした非情なものなのでしょうか、…この古代トロイア戦争の残虐ぶりも日本軍七三一部隊の非人道的な人体実験の数々も。

 暗転しつづける彼女の生。明日の希望のすべてを踏みにじられたあと、なお苦界に生きるために、この誇り高い貞淑な王妃はどうしたか。奴隷にされ、妾にされ、屈辱の極みを味わされるが、逃れようもない生と知って、憎むべき男ネオプトレモスの子を三人も産む。男を憎むがゆえにその子を生む。なかなかわたしなどには理解できない心情だが。また、のち、ネオプトレモスがデルフィで客死したあとには、王国を継いだヘレノスの妾とされ、その男とのあいだにも一子をもうける。三人の異なる男とのあいだに五人の男子を産み、そしてついには王座を取り返す強靭な生命力を見せます。
 つまり、この子どもたちによって新王国建設という運命の逆転を果たすんですね、アンドロマケは。ネオプトレモスとのあいだの長子モロッソスがエペイロス王国を、その末子のペルガモスは「東洋」の地、トロイアにほど近いところにペルガモンという新王国を。ペルガモンは標高300メートルの景勝の地にある美しい町です。アンドロマケは最晩年の身をここで落ち着け、一日として忘れたことのない「東洋の地」で心の昇華と新しい人間として蘇生します。

運命に逆らわないこの生き方は母性の原型といえないでしょうか。ある意味で、恐いですね。男はすぐに武器をもって相手に復讐しようとカッカといきり立つ。それにひきかえ、見せ掛けとは異なる女の内奥にひそむ深き思い。絶望することなく、ひたすら忍従することによって主権を奪い返したこの東洋の女がつくりだすドラマは、こぜわしく自己主張する女のそれよりも、はるかに濃密なものがあるように思えて、わたしは感動を覚えるのですが。

 ものごとには、水に流せることと流せないことがある。きのう観た映画「午後の遺言状」(新藤兼人監督)でときどき登場する丸い石…音羽信子の演じる別荘管理人であり老農婦が最後にポーンと川に投げすてていくダチョウの卵ほどの石の意味と関連して書きたいこともありますが、長くなりましたので、きょうはこのへんにて。

  

Posted by 〔がの〕さん at 10:42Comments(0)TrackBack(0)名作鑑賞〔海外〕

2011年07月21日

F/ ギリシア神話は女性をどう描いたか=1

ギリシア神話は女性をどう描いたか<1>

女の本能は国境を越え、あらゆる規範を超え、すべてを投げ捨てても…


 ギリシア神話のお話ですが、以前にサマーキャンプで「ペルセウス」をしたとき、いろいろ読んだり調べたりしました。お話は面白いのですが、男性中心の世界であまりにも理不尽で、正直、生理的に好きではないなと思いました。〔Oさん〕

 ⇒ たしかに! ギリシア神話は「女性蔑視の宝庫」といわれることがありますが、それは、ギリシア神話に限らず、北欧神話の場合もインド神話の場合も、古典神話においては概ねそういうことがいえるようですね。そもそも、ゼウスに逆らったプロメテウスに対する罰として最高神から与えられたのが“美しき悪”としての女性、パンドラ。最初の女であるパンドラは思慮もなく贈り物の函の蓋をあけ、この世にあらゆる種類の悪をひっぱりだしてしまったし、聖書神話でもアダムとイブの物語など、“女は禍い”であり、人間に対する懲らしめとして与えられたのが女というわけで、どちらも「美しいが、わざわいをもたらす禍々しき存在」として現われたことになっています。ま、いまのわたしたちを包んでいる社会構造とは大きくちがっていましたのでね。



 でも、それはどうでしょうか。ギリシアの物語、いまに残っているすぐれた文学作品のどれをとっても、女性の存在なくしては少しも動いていかないことがよくわかります。第一、あの時代のエポックとなったトロイア戦争。ホメロスの「イリアス」ではアガメムノンやオデュッセウスやアキレス、トロイ側のヘクトル、アイアスらの英雄たちの活躍が主として描かれていますが、もとはといえば、アガメムノンの弟メネラオスの嫁さんの、ヘレネという絶世の美女の存在に始まりますね。高貴の生まれながら、天性の無邪気さと破天荒な行動で、順風満帆な自分中心にまわる生活に倦んじはて、すべてを捨てて異国の男、トロイア王子パリスの愛に走ってしまう女性。ですから、本来ならミケーネのアトレウス一族の身内だけの争いだったものが、全ギリシアをあげての報復戦争になっていきました。

 この一大叙事詩でも、ヘレネという女性の人物像がきちんと描かれているとはいえませんが、すごい! と思うのは、女の本能には国境もない、自由でどんな規範も意味がなく、栄誉もかけひきもない、ということ。ホメロスは、男性中心の世界を描きながら、じつはなかなかのフェミニストで、女性を大事に、大事にしているんじゃないでしょうか。だって、これは10年にもおよぶ大戦争、敵味方をあわせて10万余の命が消え、数多の名誉が傷つけられた戦乱であり、ようやくトロイアが陥落し惨禍のおさまったあとも延々とつづくさまざまな災厄と不幸にもかかわらず、ひとりヘレネだけは、まあまあ、驚くなかれ、まったくの無傷! 夫を捨て、異国の男と歓楽のかぎりをつくし、災厄の元凶になりながらも、トロイア王国にあっても篤く庇護され、ついにそこが陥落するとまた無事に、養父のいるスパルタに帰還するという、人生の苦渋とは無縁の、天衣無縫の生涯をおくったメデタイ女性。現代の感覚ではぜったい許せない女ですが、ホメロスは一言もこの女に異を唱えていない。どうしてでしょうかねぇ。最高神ゼウス(白鳥に変身した)とレダのあいだの子だから、畏れ多いということでしょうか。

 この物語にかぎらず、ギリシア悲劇の傑作「アンティゴネ」も「エレクトラ」も「メディア」も、オレステイア三部作(アガメムノン、供養する女たち、慈しみの女神たち)も、みんな女性の尊い意思を描くもの。まさに神品のかがよいゆたかなこころです。強いですよ、アンティゴネもエレクトラもメディアも。母でもない、女でもない、性差を超えて自分の信念で主体的に行動する気高さをもっています。いつの時代だって、実質的に社会を動かしているのは女性ですよ。いや、このごろはもううしろに身を隠してということはなく、オモテのいちばん前に立っていますけれど。ギリシア喜劇の「女の平和」(アリストパネス)なんて、お読みになったことありませんか。戦争にばかりうつつをぬかし、女や家庭を顧みない男どもに性のストライキをもって対抗する愉快な話。こうなってくると、男って悲しいもん、惨めなもんですね。

でも読んでしまうし、それに関連した絵画など興味が引かれるのですよね。ギュスターブ・モローの絵とか。それだけギリシア神話をテーマにしたものが多いのでしょうね。〔Oさん〕

 ⇒ ええ、ヨーロッパ社会、その美術、文学、音楽、建築…、どこをとってもこのヘレニズムとヘブライズムに深くむすびついていますね。映画などの映像文化でも、そうです。ギリシアからは遠いこの日本にいても、その物語と文化にたえずさらされていて無縁ではありません。もちろん、古代ギリシアのこと、キリスト文化のことなど知らないでもこの日本で生きていけます。でも、ほんのちょっとばかりにすぎないのかもしれませんが、文学、美術などを通じてギリシアの風にふれた人は、まったく知らずにいる人の何十倍もの楽しみをもって、正確さと深さをもって、その情報を受け止められるということですね。

  

Posted by 〔がの〕さん at 10:17Comments(0)TrackBack(0)名作鑑賞〔海外〕

2011年06月22日

J/浄瑠璃本に見る日本的な情死

近松門左衛門の浄瑠璃本に見る
     日本的な情死


ことばを声に出して言ってみること、自分のことばにして言ってみることには、すばらしいカタルシスがあります。このところわたしは近松門左衛門全集を読んでいました。おもしろいですねぇ。「曽根崎心中」「鑓の権三重帷子」「心中天の網島」「堀川波鼓」「冥途の飛脚」「女殺油地獄」などなど。何がおもしろいかといえば、人形浄瑠璃で語るものとして書かれていますから、やたらことばの調子がいいこと。どうしても自分で声に出して言ってみたくなります。

  「みをつくし 難波に咲くや此の花の 里は三筋に町の名も 
  佐渡と越後の合いの手を 通ふ千鳥の淡路島」(「冥途の飛脚」より)


といった調子。



>近松ものでは「女殺油地獄」が好きです。あの、おどろおどろした舞台の雰囲気。江戸時代、どうやってあの雰囲気を舞台演出したんだろう? と想像してしまいます。〔Dさん〕

 『女殺油地獄』、わたしはその舞台は見たことがありませんが、読むかぎりで、ものすごいやりきれなさ、切なさを覚えましたね。きわめて現代的とも云えるように思うんです。与兵衛という油屋「河内屋」を継ぐ次男坊、これがとんでもないワルです。遊女の小菊のところに入りびたっている放蕩無頼、手のつけられない極道ものです。太兵衛という長男もいるのですが、こちらは家を出て同じ油屋をかたくやっている律儀な働きもの。与兵衛がどうして放蕩に走るようになったか、と云えば、母親お沢の盲目的な愛情というか、可愛いがりすぎです。極道ものと云っても老舗の大事な跡継ぎ。欲しいといえば何でも与えて育ててきました。父親の徳兵衛は、実父の先代徳兵衛が死んだあと、番頭あがりで後夫に入った養父で、先代の手前や周囲の目をはばかって、云いたいことも云えず、不良青年の無頼を見て見ぬふりをするしかない弱い立場にありました。J.J.ルソーの「エミール」にあることば、「子どもをダメにするのはいとも簡単だ。欲しいものがあればハイハイとすぐ与えるようにすればよい」という、まさにそのダメ男の申し子の典型のようなものですね。妹のおかちに聟をとろうという話が起こって、いよいよ与兵衛は荒れます。

 そして、ちょっと理解できないのは、なぜお吉(よし)がこのバカなハナつまみものに殺されねばならないのか、ということ。おなじ大阪・本天満町の斜め向かいで同業の油屋を営む「豊島屋」の美しい若妻。女ざかりの27歳。町内きっての美人であり、3人の子どもをもつ、無邪気なほどに明るい、まわりの受けのいい、小商人の律儀な妻です。だれにでも親切で、気さくに声をかけます。屋形船に乗っての野崎参りの途中、茶屋でひと休みしているところを、悪い色仲間といっしょの与兵衛に出会います。からかい半分でしょうか、お愛想でしょうか、「あら、きょうは小菊さんといっしょじゃないんですか」。それ以上には関係のないお吉の店「豊島屋」に行って、女郎を身請けするカネを貸してくれと執拗にせがむ与兵衛。亭主の七左衛門は出かけていて留守。主人に相談もなくそんな大金を貸すなんてできない、とお吉がぴしゃりと断ると、ブスリと刃物で刺して、集金してきたばかりの大金をごっそり棚の上から奪って逃走する。
 お吉にしてみれば、殺される何の筋合いもないのに、カネ欲しさ、女欲しさに狂う与太ものに刺し殺される。どうして…? 理由を探れば、親切がアダになって、というしかない。たしかに、喧嘩でドロまみれの与兵衛を見て、帯を解かせ着物のドロを拭いてやったという親切はあった。周囲から白眼視されているワルにとっては、そうしてくれるお吉のすがたは慈悲の女神のように思えていたかも知れない。ワルには過ぎたる親切だったということか。
 しかし、お吉殺しの犯人が、天井のネズミが暴れたことによって発覚した、という展開には、これまた驚かされました。

>「曽根崎心中」でしたでしょうか? これから心中しよう、というとき、男の父親を見かけ、心中相手の女がその父親の落とし紙をこの世の思い出に、と大切そうに懐中するシーンはそのせつなさに涙が出そうになります。〔Dさん〕

 そうそう、遊女梅川と忠兵衛の、縄目を逃れての死の道行きで、老父が巾着から銀子一枚をとりだして梅川に渡すシーンですね。1日でも多く逃亡して生き延びよとの路銀だが、それでは世間が立たぬ、大坂の義理は欠かせない、と、梅川の親切に対するお礼として手渡す。
 覚悟を決め、この世の見納めに、忠兵衛は梅川をつれて生まれ在所の村にやって来ます。忠兵衛は男女双生児の片割れで、この村から大坂の飛脚問屋亀屋にもらわれて行った養子でした。名うての美妓の梅川と相思相愛のよしみができ、ひとから預かった大事な金を盗んで追われる身に。帰郷して一目なりとも親に会ってから死にたいが、ここにもすっかり追求の手は伸びていて、親子が会うことは許されない。遠いものかげから実父の孫右衛門を見れば、老いて足はよろよろ、高下駄の鼻緒を切ってよこざまに泥田へ転げこんでしまう。梅川が思わず飛び出して、すぐさま抱き起こし、裾をしぼって、腰と膝を撫でさする。鼻緒はわしがすげようと、ふところから紙をとりだす父親。梅川は、よい紙がある、こちらをひねってあげしょうと、裂いて見せる。息子の嫁としてのせめてもの親孝行。その美しい手もとを見ながら、孫右衛門は、やさしいこの見知らぬ上臈がだれであるかを察する。老いた実父の出した紙は、唯一の形見として梅川がもらい受ける。このあと間もなく、忠兵衛・梅川は代官所の捕手の縄にかかるのですけれど…。

 どちらの作も実際にあった事件にもとづき、近松の手を経てつくられた物語だそうですが、とにかくすごい創作家ですねぇ、近松という人は。酸鼻な心中ものの類型をつらねるもの、と思ってきましたが、どうして、どうして。心中ものというよりは、すっきりとした人情もの、心理劇につくりなしていて心をうち、味としては、どちらかというと、いま評判の「蝉しぐれ」などの藤沢周平さんや、山本周五郎の下級武士もののの作品に通じるような…。ずうっとわき目もふらず、息もできないほどに緊張し集中して読むことになります。それは、やはり、ことばの調子のよさに尽きるでしょうか。

   「世を忍ぶ心の氷三百両、身も懐も冷ゆる夜に、越後屋に走りつき、
   内を覘(のぞ)けば八右衛門、横座を占めて我が評判、はつと驚き立ち聞きす、
   二階には梅川が、心を澄ます壁に耳、濡るゝぞ仇の始めなり」

                 (「冥途の飛脚」より)

この八右衛門という腹黒い友人のワナに忠兵衛はまんまとはめられ、追われる身になるわけ。

>近松ものは、国立劇場で歌舞伎鑑賞会の企画の中で取り上げられたものを見たことがあるだけです。「女殺油地獄」では、舞台の上じゅうにもれた油のなかをすべっては転び、転んでは追いかけ、の、本当におどろおどろしい演出でした。 〔Dさん〕

はは~、Dさんがご覧になったのは、原作とはかなりちがうものになっていたかもしれませんね、喜劇的要素をたっぷりと盛り込んで。これは晩年の傑作とされる作品で、他にはないリアルな殺人の場面があり、酸鼻なまでの残酷さを感じさせられるものでした。もっとも近松は歌舞伎狂言として書いたものもいくつかあり、そうした味付けで舞台をつくったのかもしれません。
井原西鶴、近松門左衛門——。こうして改めて考えてみると、その強靭な創作力に驚かされるんですね。
西鶴が生まれたのが1642年、少しおくれて近松が1653年に生まれています。高校で使った歴史年表を取り出して見てみると、この人たちが活躍したのは、徳川五代将軍綱吉(1646~1709年)、あの“おイヌさま”で有名な、評判あまりよろしくない将軍が治めていたころですね。この「生類哀れみの令」にかぎらず、タガの弛んだ綱紀を徹底的に粛正しようとした時代でした。どうも、“美しい(属)国”をいうかつての内閣がやろうとしている教育改革に一脈似ているような…。「勘定吟味役」という怖い権力が置かれ、人びとは日夜それに脅かされていたようです。

人びとは古臭い儒教道徳できびしく抑圧され、封建的な身分制度、家庭制度を押しつけられて、窮屈でたまらなかったはず。自由恋愛なんてとんでもありません。なかんづく、不義密通となれば、市中ひきまわしのうえ、ハリツケのさらしものです。しかしねぇ、人びとはそんなには禁欲生活に耐えられるものではありません。ナマの人間ですから。近松の作品はいずれも実際にあった悲劇的な事件にもとづいて書かれているそうですが、命を賭けて恋にわが身を投げて燃やした男と女、そして恋を成就し、果かなく消えていった、自分のこころにウソいつわりなく生きぬいた男と女を描きました。パッと生きパッと消えた男女を描くことによって、西鶴も近松も、命がけでその非人間的な社会制度と時代状況に抗議したんですね。そこがまたスゴイ!
  

Posted by 〔がの〕さん at 00:30Comments(0)TrackBack(0)名作鑑賞〔国内〕

2011年06月04日

✦『源氏物語』に見る求婚の風光

『源氏物語』に見る求婚の風光 

 たくさんの個性ゆたかな、魅力あふれる女性のオン・パレードを見せてくれる『源氏物語』。求婚者の多さという点から見ると、玉鬘(たまかつら)ということになるでしょうか。玉鬘は光源氏がこよなく愛した女性の一人である夕顔の遺児です。ほんとうは光源氏の子どもではなく、恋において政治においてライバルの関係にある頭中将(とうのちゅうじょう)と夕顔とのあいだに生まれた子。母親に似てたいそうな美貌だったようです。



 母親の夕顔ですが、物語全体のなかではそれほど存在感があるわけではありませんね。男のいいなりになってしまう自然体の女というか、どうも頼りなげな存在ですが、男の欲望をそそらずにはいない魅力的な容姿に加え、性愛じょうずとされ、源氏も頭中将もゾッコンでした。そうなると、周囲の女たちの嫉妬には恐ろしいものがあり、源氏の愛人とされながらあまり相手にしてもらっていない六条御息所(ろくじょうみやすんどころ)の怨霊に呪い殺されてしまいます。夕顔の19歳のときでした。とびきりの美貌で、優柔不断。まあ、好色男たちにはいちばんご都合よろしい女というわけで、身から出たのは、高雅な香りのたちのぼりではなく、サビというわけで、こんな命の閉じ方も仕方ないでしょうかね。さらにイイタマなことには、死にのぞんで娘の玉鬘の養育を源氏に託すというちゃっかりぶり。

 さて、玉鬘。なんとも可愛らしいこの子、たいそうな物語好きなんですね。紫式部がこの可愛い幼女に対する源氏のことばを借りて物語観を述べる部分です。『竹取物語』がなぜ「ものがたり」の祖形なのか、そこはわたしたちにもおおいに勉強になりますね。その玉鬘、日ごとに成長して美しさを加えていきます。そうなると、さあさあ、たいへん、どっと求婚者が現われ、彼女の思いは千々に乱れます。なかには、乱暴者として聞こえた大夫監(たゆうのげん)という肥後の豪族がいます。ヘタに拒絶しようものなら何をされるかわかりません。それだけではありません。のちに女三の宮との密通でたいへんな事態を引き起こす柏木までも。この柏木、じつは玉鬘が自分の姉であることも知らないオタンチン。さらには源氏の弟の蛍兵部卿宮も、また有力な政治家ながら無骨者の鬚黒大将も。さらにやっかいなことには、源氏自身も。自分が養父であることを忘れて玉鬘に執拗に言い寄り、親子関係が危機に瀕します。

 しかし、騒がしい男たちをよそに、玉鬘はなかなか慎重な女です。打算の人です。あれこれと己れの行く末にじっくりと思いをめぐらせます。なみいる貴公子たちから次つぎに届く恋文。彼女がそれに返信するのは、養父の弟の蛍兵部卿宮ただ一人。立場上からして欠かせぬ礼儀だったのでしょう。さあ、これで決まり! と思いきや、玉鬘がくだした最後の結論は、……なんとまあ、もっとも気が進まなかったはずの相手、鬚黒大将というわけ。う~ん、そんなもんでしょうかねぇ、賢い女の打算とは。
  

Posted by 〔がの〕さん at 18:05Comments(0)TrackBack(0)日本古典文学

2011年04月28日

A/華道から見た日本人の美意識

華道から見た日本人の美意識 
   時間の遠い深みにあるものを、ひとつずつ、ごまかしなく…

 女性のみなさんのうちの多くが茶道や華道の心得をお持ちのことでしょう。わたしのひとつ上の世代の女性は、ほとんど例外なく、お花とお茶、それにお裁縫とお料理を、女学校を卒えるとすぐ女のたしなみとして学び、体得していました。編み物教室に通う人も。そういうお稽古ごとが花嫁修業として広く普及し、定着していましたね。地方都市では、まだ、女子が都会の大学へ出るのはごく稀れな時代でした。日本舞踊をならうお嬢さんに恋にも似たあこがれをいだいたりしたことも…。当時、町にはそういう学校がたくさんあったことを記憶しています。いまはどうでしょうか。茶道、華道というと、なにやら取り澄まして気取った、何派だ、何流だと、いやに閉鎖的、権威主義的で、おカネがらみの印象もあり、庶民感覚からは遠いところのものになっているような…。

 小原流華道の先生であり、ときには地域の福祉ヴォランティアをいっしょにすることもある一人の尊敬する知人がおります。60歳代の、謙虚で目立つことはないが、どこか気品があり、欲がなく、たいへん魅力的な女性でして、このひとに招かれるまま、華道の何かも知らず、生まれてはじめて華道展なるものをのぞくことになりました。
 そんなわけでして、だれの作品…、といわれても、その知人以外には名前は知らないんです。それぞれの作品の、どこをどう見ればよいのかもわからない。困ったことに、華道の求めるこころなんて考えたこともなく、そもそも「道」というあやしげな伝統というか因襲というか、そういう前近代的なものがいやな気がして、剣道、柔道、弓道、書道、芸道…、どうにも生理的に合わないんですね(といいながら、すこしばかりは茶道、香道にはふれたことがありますが)。「道」だからって、どうしたっていうんだ、めんどうだよ、どうでもいいことじゃないか、と、…ドウしようもないのですが。(あれっ、戯作気分がまだ抜けない)



 無知の恥をしのんでその知人に聞いたところによれば、なかなか華道も奥が深いようなんですね。話してくれたことをわたしが十分理解したとはとてもいえないのですが、およそ以下のようなことらしいのです。
 活け花にあっても、求めるところは人間の生きるたたずまいと同じで、ひとに目鼻があり、手足があるように、それがある微妙なバランスをもって美しい形を生み出す。そうしたなかでも、ひとつの芯がないと表現にならないのだそうです。表現世界の柱になる個性的なシン。女性が、お化粧でいくら化けても、ほんとうの美しさには届かない。髪や耳や首をどれほど高価な宝石で飾っても、飾れば飾るほどチンケなものになるだけ。センスというものはそういう虚飾とは関係がない。活け花にあっては、小枝ばかりをきかせてキンキラに飾りたてても、生彩ある美しさは生み出せない。
 云っていることは、まさに人間についてなんですね。才能に恵まれ、たくさんのすぐれた能力をもち、りっぱな教育も受けてゆたかな教養と知識をもちながら、ほんとうの人間のシン(心、芯)を備えていないひとには魅力がない、ということ。まいりますね、こういうことを云われてしまうと。人がらをしのばせる人間の滋味。さて、わたしのシンにあるものって、なんだろう。そのシンを磨き、強めるために、わたしはこの1年、何をしなければならないのかを考えるひとときでした(すぐ忘れてしまうのですが)。
 ひとつわかったことは、急ぎすぎないこと。急いで大事なことを見すごしてしまわないこと。わかりもしないのにわかったふりをしないこと。以前大騒ぎになった事件に、マンションやホテルの建設に際しての耐震強度偽装という、人間の良心を疑わせる問題がありました。その根本にあるのが、急ぎすぎたこと、ひとを欺きごまかしたこと、自分の利益に奔走するあまり人間のシンを忘れたか捨て去ったかしたこと、自分の仕事の誇りを見失ったこと…、ではなかったか。
 早いことはちっともえらいことじゃない。手帳の予定表を真っ黒にして東奔西走することを充実と勘違いする愚かしさは犯すまい。ゆっくりでいい、一つひとつ、じっくり時間をかけて考え、新しいとされるものに流されないこと。そう、時間の遠い遠い深みにある真実にしっかり目を向け、視点をずらさず見つめなおし、ごまかしなく考えてみること。そう見てくると、これは普遍的な教育観、人生観でもあることに気づきます、…いそがないこと、ごまかさないこと。
 やはり、プリミティヴな地平、古典に還るということかなあ。さまざまな「道」についても、わけもわからぬまま忌避しないで、その底にある哲理の輝きを汲み上げる努力をしなければ…。

〔To: Cさん〕
 自分の中心軸をどこにすえるか、ゼニカネで動くのでなく、ほんとうに自分の求めるものが何かを意識しながら活動することが必要なようで(どれほどすぐれた能力に恵まれていても、限界はありますので)、無用なものをどんどん削ぎ落としてすっきりと個性的に立つすがたのほうが美しいんじゃないでしょうかね。能力をひけらかすかのように何でもかでも中途半端に受け入れてばたばた忙しがっているすがたは、どう見ても美しくない。

〔To: Hさん〕 
 活け花につかうあのケンザン、漢字では「剣山」と書くようですね。太い針が逆さに植え込んであり、それで花の茎を固定させるやつ。どうしてなのか、あれに、少年はふしぎな魅力を感じるんです、トゲトゲがあってチクリと痛いけれど、手にもつとズシリとした手応えがあって。これを武器にしてケンカをしたら、もうだれにも負けない、…そんな気がして、生意気なアイツをこんどおんおん泣かしてやるぞ、なんてね。
 小学校の低学年生だったころでした、私立の女子高校へいっている上の姉が持っているお花のお稽古でつかう楕円の形をしたケンザンがむしょうに欲しくなってしまって、こっそりくすねて自分の部屋の秘密の場所に隠し持っていたり、ランドセルの底にしのばせて学校へ持って行ったりしたことがありました。
 さて、そのうち姉が、ない、ない、といって騒ぎだし、探すこと、探すこと! 泣き泣き探すうち、ついに疑いが末っ子のわたしに向けられます。ウソをそんなにじょうずにつけるほどの知恵はありませんので、たちまち白状することになります。揚句、姉には、ボカボカ、ぼかぼか、頭がイビツになるほど滅茶苦茶になぐられたうえ、親には倉に押し込められるという最悪のおしおきを受け、やけに元気に走りまわるネズミの声におびえながら半日をすごした記憶があります。
 活け花の記憶といえば、そんなことが。
  

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2011年01月28日

✦光源氏のいる風景

光源氏のいる風景
源氏物語のおもしろさ、魅力とは…?

 わたしにとっての「源氏物語」の魅力は? 
 …そう問われて、ひとにわかってもらえる説明がわたしにできるとは思えないんですがね。「もののあはれ」と説くような国学者(本居宣長)ならいざ知らず、菲才なわたしなどは、分析的にこれを読むことはできないし、そんなことをしたら、学校の教科書で読んだときのつまらなさと同じで、ちっとも興味がわきませんよね。
ちっとぐらいわからない古語が出てきても、そんなものはすっとばして読む、そこにしか古典文学を読む醍醐味はないように思うことがあります。だって、どうでしょうか、この小説、堅物の乾いた知性主義者は嫌うのでしょうが(陰では案外好きなのかな?)、ほら、“すみれの花 咲くころ はじめて君を知りぬ…” の宝塚少女歌劇を見ているような錯覚さえ感じることがあるように思うんですよね。
「愛」と「恋」の専売特許局としての華麗なるタカラヅカ…。構えて読んだらその味はわからないかもしれませんし。


 でも、何でしょうかねぇ、「源氏物語」の魅力とは…?
 日本古典文学に見ることばの美しさ」をいくら語っても、それはソラゴトでしかないでしょうしね、自分のことでいっぱい、いっぱいの、文章をしっかり噛みしめて読むことをしなくなって、ただシッタバッタと東奔西走するいまどきのパソコン族、ケータイ族にとっては。でも、心落ち着けて声に出して読んでみると、ことばに独特のリズムがあって心地よく、ゆりかごにゆられているよう…、ということがあると思います。格調高い、金襴緞子を敷き詰めたような美しいことばの世界には、背筋をスッとさせるものもあります。
 それに、王朝文化のきらめきが放つ魅力、そのゆったりとした流れに癒しを求める人もないではないはず。季節行事に見るゆかしさや女たちの着る衣装の繊細さ、色のあでやかさ。そこに通う風が、妙に日本人の本源的な感覚に合う、というか、わたしたちの感覚の奥のところまでじわじわと沁みてくるような、なじみあるなつかしさを覚える、ということ。
 また、これまで知らなかった日本の時代を知る驚きの機会ともなりますね。王朝時代のきらびやかな文化、わたしたちの知らない、あるいは忘れかけた世界、でもそこはもともとわたしたちのいた故郷、へ導いてくれるパワーと魅惑がありますね。

 正直なところをいいますと、わたしのような卑属で凡愚なものにとっての「源氏物語」の魅力、いや、おもしろさを、あえて一言であらわすなら、壮大な「恋の万華鏡」だ、ということでしょうか。“いい女”のオンパレード、そして、地位において、経済力において、容姿において、「光る」源氏の連綿たる女あさり。「光」乏しいわが身にひきかえ、欲しいと思えばどんな女でもモノにできる、光そのもののような男への羨望であり憧れであり、また嫉妬、揶揄と侮蔑。いや、やっぱり、やっかみかな?
 永遠の女性たる藤壺がいるかと思えば、“一見美人”とは違って底光りのする美しさの明石の上がおり、末摘花のようなゲテモノや、老いてますますおさかんな源典侍(げんのないしのすけ)のようなバケモノもいる。もの堅い空蝉や朝顔がいるかと思えば、娼婦のような根っからのおとこ好きの夕顔や朧月夜のようなのもいる、と、いろいろなタイプの女性が登場してきて「愛」を結ぶわけですが、考えてみれば、終局的には、ことごとくその愛はその場かぎりの失敗作で、未来につながるものがない。だってそうでしょう、あれほど多くの女性と交情した浮かれ男のくせに、子どもはあまりいないですよね。その時代に少子化は流行らなかったはずなのに、生産性に乏しい男。
 反面、これは紫式部の敷いた皮肉か、息子の夕霧のほうは、まじめ一方の堅物であり、要領の悪い愚直な律儀もの。しかし、めでたくも、たくさんの子女に恵まれています。

 教科書でしか「源氏物語」を読んだことのない人には知られることのない物語世界ですが、遠い世界の浮かれたスケベばなしというだけではないんですね、これ。人間の生と死、読み進んでいくと、ゴォーン、ゴォー~ンと、人生無常のひびきが不気味な低音部をなしていることがわかります。
 ついにあまり親しめなかった正妻の葵の上が死の床につき、六条御息所が怨念深く死に、あんなに憧れていた藤壺の宮も、夕顔も、そしてついには最愛の紫の上にも先だたれます。空蝉も朧月夜も出家して世を捨てて、源氏はたったひとりきりで残されます。光につつまれた驕慢な美貌の貴公子が完膚なきまでにたたきのめされる哀れな姿は、わたしのような光乏しい存在にとっては、それ見たことか! とちょっとうれしくなっちゃうんですね。人生、そんなにうまくいくもんじゃないだろ、バカめ、とベロを出したくなる痛快な展開。
 王朝時代の才女、紫式部のエスプリをきかせた皮肉が、殺伐としたこの煩雑な世にすれ切れてよれよれになって生きる、この光乏しいこの存在をホッとさせてくれる、といったところか。


 やんごとなき宮廷生活のかげに、悲しみと怨みに慟哭する姿も

 菲才をかえりみず愧じをしのんで言えば、「源氏物語」は、やんごとなき公達が繰り返す恋と性の渉猟物語として読まれる(いや、本当はあまり読まれない)古典文学ですが、なかなか通して読むまではできないながら、気に入ったところを繰り返し、声に出して読んでいると、そののびのびとした円転滑脱な発想がよく見えてきますし、王朝文学の特徴とされる精緻幽婉な感情をたっぷりと楽しませてもらえるとともに、意外かも知れませんが、ある部分は躍動的、いや、活劇的でさえある部分もあって、こちらをハラハラ、ドキドキさせてくれます。夢中にあるような酔い心地さえ覚えます。
 そして、四季の自然にまみれ、自然にまろぶ彼らの生活は、情趣深いものがあって、読むもののこころを豊かにしてくれます。色彩感覚にも富み、華麗な夢の万華鏡ですね、やはり。しかも、もう一歩深く読めば、やんごとなき上流貴族のきれいごと、苦労知らずのめでたさではなく、じつは悲哀に号泣する人間の姿、怨念に慟哭し咆哮する人間の、なまなましい姿も見えてきます。みんな合わせて、これぞ日本人の美意識の原点であり、今日にいたるまで、日本人の趣味生活のあらゆる面で、この物語が直接間接に影響していることが知れます。


  

Posted by 〔がの〕さん at 21:01Comments(3)TrackBack(0)日本古典文学

2011年01月21日

✦光源氏が“光”を喪うとき

光源氏が“光”を喪うとき……「青海波」考(部分)……

 土佐光芳の筆によると伝えられる「紅葉賀」の物語絵には、「青海波」舞う光源氏と頭中将が右下の手前に描かれています。その上には、注意しないと見落としそうですが、たぶん間違いないと思います、御簾のうしろに藤壺が、そしてその前に桐壺帝が描かれています。光源氏とのあいだに不義の子をやどした身である藤壺は、どんな思いで禁断の恋の相手の舞いを見たことでしょうか。 複雑な思いにこころ乱れて、どうも、目を伏せ、まともにその舞いを見ているようではありませんね。


伝土佐光芳筆「紅葉の賀」(部分)青海波を舞う光源氏と頭中将



同上、青海波の舞いを見る藤壺と桐壷帝



 光源氏は白菊を頭にかざしています。一方の頭中将がかざしているのはまっ赤なモミジですね。白菊とモミジ、ここにはどんな意味がこめられているのか。
 菊の花などに“うつろひ”を見る古人の繊細な感性に驚かされ、ロマンを覚えます。花は、何のかけひきもなく、さっと咲いて、さっと散っていく、その潔さがよい、と古来より言われてきました。自分の美しさも知らぬげに、つつましく、ただ咲き、ほろほろと散っていく、それがよい、と。ところが、それは、菊とか紫陽花とか向日葵などの大輪の花のこととは思えませんね。いっとき命のかぎりカアーッと燃えて咲き、果てにしのちは、ちょっといただけない姿、惨めなほどに汚く凋落するのが、かの大輪の花。
まさにそこには、光源氏が齢とともに光を失っていく姿を予兆させるもの、満月にも似て欠けるところなかったものに、ついに生じた醜い破綻、…でもあったのか? 一方、頭中将のかざしたモミジのあざやかな紅色。散る前、命果てる直前に生きとせ生きるものが見せる一瞬の輝き、最後の輝きのシンボル、…なんてみるのは、うがちすぎでしょうかね。あ~あ、世は無常だなあ…。悲しきことのみ多かりき。明かりが見えないなあ…。

 いっとき命のかぎりカアーッと燃えて咲き、果てにしのちは、ちょっといただけない姿、惨めなほどに汚く凋落するのが、かの大輪の花。
 まさにそこには、光源氏が齢とともに光を失っていく姿を予兆させるもの、満月にも似て欠けるところなかったものに、ついに生じた醜い破綻、…でもあったのか? 一方、頭中将のかざしたモミジのあざやかな紅色。散る前、命果てる直前に生きとせ生きるものが見せる一瞬の輝き、最後の輝きのシンボル、…なんてみるのは、うがちすぎでしょうかね。

 「うつろひ」という読み方、よく理解できました。紫女がどこまでそれを意識して書いたかはわかりませんが、そんな読み方に一票を投じたく思います。
 映画「千年の恋」で天海祐季という宝塚出の女優さんが、波とたわむれる千鳥のすがたをみごとに舞っていると、わたしのものを読んだ人の一人から聞きました。わたしはまだそのDVDを見ていませんけれど、機会を得て見てみたいものです。
 でも、あれを宝塚ふうに華麗に舞われたら、その“もののあはれ”はどうなるんでしょうか。光源氏と頭中将による「青海波」は、よく読むと、夕暮れの最後の残照のなかで舞われています。いずれは沈む太陽のおもむきとして、紫女は筆をふるっています。

 で、その後思い出したのは、「平家物語」で平惟盛が舞う「青海波」。惟盛もたいそうな美男子でしたよね。う~~~ん、考えてみれば、これも平家一門が衰亡していくときの最後の光芒として象徴的に描かれたものなんでしょうかね。
 それに、「若菜上」では、光源氏の四十歳を祝賀する宴がおこなわれますよね。紫の上が主催するものでしたでしょうか。今でいうなら「喜寿」のお祝い、いや「米寿」でしょうかね。ここではつぎの若きエースたる夕霧と柏木が「落蹲」を舞いますね。
 「らくそん」落ちてうずくまる…。そのタイトルも相当気になりますが、舞いの最後の「入陵をほのかに舞ひて紅葉の蔭に入りぬ名残り」のすがたは、かつての光源氏18歳、19歳のときの輝き、「紅葉賀」の宴で舞った「青海波」を彷彿させるものがあり、まさに世代交代、いよいよ落日の時を迎えた貴公子の、なんとももの寂しい孤独が漂いますね。柏木によって若すぎる嫁の女三宮は寝取られているわけですし。


 満月のように欠けるところなきモテもて男、望めばそのとおりになる驕慢な美貌の貴公子が、時の流れの果てに、完膚なきまでに凋落し、うちのめされるすがたに、モテない男の次元の低いやっかみとは知りつつ、そんなもんさね、人生無常というものよ、と意地悪く納得し、胸に落とすわが身のさもしさ。

 ですが、遠い世界のフィクションとはわかっていながら、どうも、そこにはやるせないものが滓のように残り、こころに悲しみが染み出してくる。あ~あ、老いとともに喪っていくものの数の多さよ。人生の晩秋を迎えたわが身に重なるものがあるからか。
 そんな気分のとき、朧月夜の内侍とのところを、もう一度読んでみたくなる。中年になった光源氏。いや、今でいうなら中年をすぎ、わたしと同じころか。光おとろえた彼の人生最後の花火のようにして打ち上げられた再燃の恋。その相手は、こともあろうに、自身の政敵である右大臣の娘、しかも自身の兄にあたる朱雀院が格別に愛している寵妃ときている。
 この姫君、入内する以前から源氏と通じていたようだ。どうも、自制力なく、情にもろいというか男好きというか、いい男と見ればすぐ靡いてしまうタイプの女性。プレイボーイにとっては都合よろしい女。こんな恋がうまくつづくはずもなく、背徳に沈湎して、そのうしろめたさと罪の意識を共有するだけに終わる恋。

 でもさ、よかったじゃないか、それもすばらしいロマンじゃないか。輝きはないけれど、その年齢にしてまだドキドキさせられる、うらやましいような愛。朧月夜さん、忘れがたいすてきな日々をありがとう。だってさ、葵の上、六条御息所、藤壺の宮、夕顔、そして紫の上にも先だたれてしまうんだよ、源氏は。つぎには空蝉もこの朧月夜も世を捨てて仏門に入る。源氏独りがポツンと取り残される。父親を裏切った自分が今度は若い妻の裏切りにあう。何がおもしろくて生きているんじゃい、わたしは…!

 情熱と歓楽にふけるひとときもあれば、悲哀と喪失感にひしがれ号泣するときもある。人生の春夏秋冬の「うつろひ」。それは貴賎を問わない。良くも悪くもそれが人の一生というものか。



  

Posted by 〔がの〕さん at 00:00Comments(0)TrackBack(0)日本古典文学

2010年11月30日

P/宮澤賢治、その創作の源泉

>今朝の静岡放送のラジオで、一番読んでみたい本ランキングで1位が宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」でした。(2人3脚さん)

➥そうでしたか。子どもにも大人にも人気のある詩人であり、愛読されている作品ですね。
「銀河鉄道の夜」は、童話とか児童文学作品にはくくりきれない深い味のある作品、ほんとうは、子どもの感性を超えた重みのある(いや、子どもの感性をもってしないと捉えられない)作品で、まだ未完なのに、そのイメージの鮮烈さと発するメッセージの真実性がひとのこころを捉えるのでしょうか。



 賢治のことなら、語り尽くせぬものがある。
 花巻の宮澤家の人びととたいへん親交のあった人、わたしの文学の師の一人でもある前日本女子大学講師の先生から、これまでに耳にしたことのない数かずの秘話を聞く機会を得ました。
 宮澤賢治については、このわたし、40年余にわたってたくさんの本を読んだり、話を聞いたりして親しみ、かなりよく知っているつもりでしたが、こんな話は初めて、という驚きのなかで聞いた「宮澤賢治の奇跡」と題する座談講演会。地域でおこなうわたしたちの読書会の企画を市民館の自主企画としておこなったもの。その講話から、ひとつだけ秘話を紹介いたしましょう。
〔この一文は、別のブログに一昨年書いたものを一部省略して転載するものです〕

 賢治の父親は政次郎さん。質屋や古着で財をなした人ですね。ハンガーに吊るされた着物の下をくぐって移動しなければならなかった家の事情を、賢治も弟の清六さんも、子どものころから大変嫌っていたそうです。賢治が37歳で他界する最後の前日まで、この父親とは互いに理解しあうことなく確執はつづきました。しかし、最後の最後に至って「おまえもなかなかだった」と初めて父親にほめられたと、死の床で賢治が清六さんにっこりと語ったと『兄のトランク』にしるしています。はげしく反発しながらもついに父親の掌のうえから脱け出すことのできなかったその生涯。そこに賢治作品の生まれた源泉を求めるのは、ごく常識的ではないでしょうか。
 ほかにも、母親のイチさん。不和の関係にある夫と息子のあいだにあって苦労しながらも、「人というのは、ひとのためになるように生まれてきたのす」とずっとずう~っと賢治の耳もとで言ってきたやさしい母親です。その考え方の影を落としている作品なら、いくらでも挙げられますね。ほかにも、祖父母、宗教家、小学校の先生…などなどの影響の色も。

 ここで紹介するのは、父政次郎さんの姉、賢治から見ると伯母にあたる平賀ヤギさんという人の影響です。賢治が誕生したとき、この人は離縁して出戻っていたようです。ちょっと不幸を感じさせる女性。2歳、3歳の賢治が夜寝るときには、いつもこの人に抱かれて寝ていたようです。背負われたり、抱かれたり、たいそう可愛いがられていたらしい。ところが、そんなときいつもこの人が口にする子守唄は、なんとまあ、お経だったという。30歳がらみのきれいな出戻りバツイチ女。その人がたえず口に唱えていたのは、蓮如の「白骨の文」。浄土真宗の再興の祖とされる蓮如。しかし、口に出して読んでごらんなさい、ゾッとしますよ、この経文は。浄土真宗の葬儀に出られたことのある人なら、一度は耳にしたはずですが。
〔このテの経文は苦手という方は、どうぞここは飛ばして読んでください〕

 「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。
 …我やさき、人やさき、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
 されば朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。…されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏もうすベきものなり。あなかしこ、あなかしこ」


 人が死ぬのは、自分が先か他人が先か、わかったものではない。今日死ぬか、明日死ぬか、だれもわからない。あした(朝)には赤いほっぺたをして健康そうにしていても、夜(夕べ)には死んで白骨となる身、それがとりもなおさず、人間さ。哀れなものよ、人間とは。まだものごころのつかぬ賢治は、抱かれても、おんぶされても、添い寝されても、四六時中ぶつぶつとこんな呪文の雨を浴びて育ったというんですね。
 賢治が書き残した数かずの珠玉の作品の随所に、どこか、何とも云えぬ哀しいものがあるのは、ひょっとして、ここかも知れない。たしかに、一面、この伯母さんの影響を無視することはできないのではないか、と。
 ご存知でしたか、こんな逸話を。宮澤家の人たちと深い関係がなくては、こんな話を知る機会はありませんでしょうね。

 翌週には賢治と宗教のことが改めて話された。父親の政次郎さんは、すわって昼飯を食べたことがないというほどのたいへんな働きものでした。同時に、仏教の信仰にとりわけ篤い人で、生粋の浄土真宗の徒、周辺地域ではその方面のトップリーダーの立場にある人でした。幼いころから賢治は欠かさず仏教講話に連れていかれ、正座してまじろぎもせず熱心に聞いていたそうです。賢治の透明な時間が想われますね。
 それが、あるときふと、日蓮宗の系統の「国柱会」へのめりこんでいきます。そこがどうもよくわからないのですが…。

 「宮澤賢治の奇跡」第二回は「宮澤賢治の信仰と文学」と題しての講演会。宗教のほうから宮澤賢治を捉えなおすという、ちょっとむずかしいテーマ。熱心な浄土真宗の信者である父親の政次郎さんとの終生つづいたはげしい確執のことや、伯母さんにあたる平賀ヤギさんの「白骨の文」のことからはじめて、暁烏敏(あけがらす・はや)、島地黙雷、その養子の島地大等高橋勘太郎などといったすぐれた高僧・学僧のこと――父親の政次郎さんが東京に赴いては連れてきて講演してもらった、そのたび、賢治は息をとめるようにしてジッとその話を聞いたという――、島地大等編著の「漢和対照妙法蓮華経」のこと…。ほとんど生まれ落ちると同時にまわりじゅうが仏教の信仰に彩られた環境にまみれていて、明けても暮れてもそういうところで育った賢治像が浮かびあがってきました。
  

Posted by 〔がの〕さん at 22:08Comments(5)TrackBack(0)名作鑑賞〔国内〕

2010年11月16日

P/挽歌、そして宮澤賢治

 たとえば、広く文藝世界を見回して、心に深く刻まれて片時も忘れることのできない「挽歌」を三つ挙げよといわれたら、あなたなら、どんな作品を挙げますか? ガーンと打ちのめされて呆然自失させられるような作。
 わたしの場合、そのひとつは斎藤茂吉の「赤光」にある一首、

   のど赤き玄鳥(つばくろめ)ふたつ屋梁(はり)にいて
       たらちねの母は死にたまふなり
 

 つぎには与謝野晶子が夫鉄幹を喪ったときに書いたいくつかの歌(白桜記)、たとえば、そのうちのひとつ、

   みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
       もうけふおまへはわかれてしまふ


 そして第一には宮澤賢治の「永訣の朝」「無声慟哭」、もうひとつ「青森挽歌」でしょう。

  けふのうちに
  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゆとてちてけんじや) …
 

 東京ことばで書かれた地の文(賢治のことば)に、妹トシのことばとして花巻弁が差し込まれ、ふしぎな諧調をつくる詩文ですね。ほとんど平仮名で書かれ、「っ」「ゃ」といった撥音も使わぬ、雪の夜のような静謐な調子。とりわけわたしがまいってしまうのは、最後に近い部分なんですけどね。

  この雪はどこをえらぼうにも
  あんまりどこもまつしろなのだ
  そんなおそろしいみぞれたそらから
  このうつくしい雪がきたのだ
    (うまれてくるたて
     こんどはこたにわりやのことばかりで
     くるしまなあよにうまれてくる)
  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
  わたくしはいま こころからいのる …略…
  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ…
 (永訣の朝)

 トシが死の床でいうことば、今度生まれてくるときには、自分のことばかりでなく、ひとさまのためになるような生き方をしたい、という願い、というよりは、祈りは、母親のイチさんがいつも賢治の耳もとでいっていたことばですよね。「人というのは、ひとのためになるように生まれてきたのッす」。自分の利得、自分の欲望ばかりしか考えないで破廉恥な欺瞞を犯すこのごろのケータイ短絡型人間に、イチさんのこのことば、トシのこのことばの一部でもわかってもらえたらなあ、と思いますね。せめてこれからの社会をになう人びとには、賢治のこの澄み切ったこころを大事な糧にしてもらいたいと、「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」次第ですが。
 それにしても、人間の「絆」って何だろう、すごいなあ、と思います。一人の人間の思想形成、人間形成にとって、「絆」とは…。

 さらに宮澤賢治とともに涙をしぼってもらいましょうか、「無声慟哭」から抜粋して…。

  こんなにもみんなにみまもられながら
  おまへはまだここでくるしまなければならないのか
  ……おまへはじぶんにさだめられたみちを
  ひとりさびしく往かうとするか


 宮澤賢治は第一級の「りっぱな」詩人か、「うまい」詩人か、というと、わたしは必ずしもそうは思わないところがあります。しかし、「永訣の朝」「無声慟哭」…、「雨ニモマケズ」も含め、こういう賢治の詩は、わたしごとき凡愚なものの、いささかの蛇足も必要としない真情にあふれていますよね。
 かつての日、わたしはこれらの詩句を嗚咽しながらなんべんも口にし、自分の手で一字一字、原稿に書き写しつつ、何度涙したことだろう、何枚の原稿用紙を涙にぬらしたことだろう。わたしには妹はなく、その実感には薄いものがあるのかも知れないけれど、わたしは、その涙にこれ以上ないほどの清らかさを感じ、ことばを超える詩的宇宙のなかに誘いこまれる美しい時間をこころいっぱいに楽しみました。

  鳥のやうに栗鼠のやうに
  おまへは林をしたつてゐた
  どんなにわたくしがうらやましかつたらう
  ああ けふのうちにとおくへさらうとするいもうとよ
  ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
  わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
  泣いてわたくしにさう言つてくれ  
(「松の針」より)

 死に瀕する妹に、林から松の一枝を採ってきて与える兄の思い。格別な巧妙さがあるわけでもない、過剰なもの、飾ったもののひとかけらもない詩。でも、修羅を誠実に生きた賢治という人の玲瓏な心象は、清浄な気でわたしのこころを満たしてくれます。「詩」なんて呼ばなくてもいい、ことばの世界、こころの世界がここにはありますのでね。

*…詩についてもっと、宮澤賢治とその妹のことをもっと書いてくれ、との声がいくつか私信に寄せられました。上記の一文は、わたしの別のホームページ(〔がの〕さんの閑粒子日記)に2年ほど前に書いたものの再録です(一部修正)。




  

Posted by 〔がの〕さん at 22:13Comments(4)TrackBack(0)詩、短歌

2010年10月26日

P/萩原朔太郎と宮澤賢治

   春と修羅

  心象のはひいろはがねから
  あけびのつるはくもにからまり
  のばらのやぶや腐植の湿地
  いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
  (正午の管楽よりもしげく
    琥珀のかけらがそそぐとき)
  いかりのにがさまた青さ
  四月の気層のひかりの底を
  唾(つばき)し はぎしりゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ 
(以下略)

宮澤賢治らしい気韻に満ちた詩ですね。
スッとした美感の漂いたつ「詩の匂い」がするじゃありませんか。
で、ハッと気づいたのですが、これ、
現代詩の聖典とされる萩原朔太郎の「月に吠える」の詩想と
やけに似ている、ふしぎと似ているのでは、と。
魂の奥底の暗闇で行き着くところなくさまようこころ。
「似ている」という詩の読み方は、いかにも邪道で、
詩人にははなはだ失礼なのですが、
ここは六塵の世に生きる凡愚にして卑俗な身としてお赦し願い、
不明を恥じつつ、このふたりの詩人の類似性を、
その心の旅路に沿って拾ってみたい。

ふたりの出自と家庭環境が、まず、似ていますね。
父親との確執はついに最後まで溶け合うことはありませんでした。
朔太郎の父・密造は高名な開業医であり、地方の名士でしたし、
賢治の父・政治郎は質店を経営、地主であり町会議員でもありました。
ともに長男、家を継ぐことない、不肖の息子だったわけですね。
そんな家庭にあって、白眼視される兄を理解する妹がいました。
朔太郎にはユキ。4人の妹のうちの二番目の妹。
上州三大美女の一人という伝説的な美貌の妹。〔写真参照〕
「幼き妹」という、あまり知られない、朔太郎には珍しい詩があります。



  いもうとよ
  そのいぢらしい顔をあげ
  みよ兄は手に水桃(すいみつ)をささげもち
  いっさんにきみがかたへにしたひよる
  この東京の日ぐれどき
  兄の恋魚は青らみゆきて
  日ごとにいたみしたたり
  いきもたえだえ
  あい子よ
  ふたり哀しき日のしたに
  ひとしれず草木の種を研ぐとても
  さびしきはげに我らの素脚ならずや
  ああいとけなきおんみよ


賢治にはトシ。「永訣の朝」や「無声慟哭」や「松の針」などの
哀切な絶唱を生んだ、夭逝した二つちがいの妹。

  けふのうちに
  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゆとてちてけんじや)
  うすあかくいつそう陰惨な雲から
  みぞれはびちよびちよふつてくる
    (あめゆじゆとてちてけんじや)
         
              以下略 <永訣の朝

   (前略)
  わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
  おまへはじぶんにさだめられたみちを
  ひとりさびしく往かうとするか
  信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
  あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
  毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
  おまへはひとりどこへ行こうとするのだ
 
              以下略 <無声慟哭

「きしやは銀河系の玲瑯レンズ」と表現された
暗闇を行く客車の窓からの風光を描いた「青森挽歌」という詩などは、
銀河鉄道の夜」の原型ともいえる詩で、
いまは亡き「せはしいみちづれ」の妹の幻像を希求する
賢治の切ない思いに満ちみちていますね。

ニーチェ、ショーペンハウエルに傾倒した朔太郎、
法華経(国柱会)を信奉した賢治。
ともに西欧文明、近代文化への憧れをもつモダニストで、
クリスチャンとの交流もあり、強い東京志向ももっていました。
ですが、盲目的というに近い西洋崇拝の一方、
純粋な日本への回帰も合わせもつところも共通。
マンドリンやギターを弾いた朔太郎、
チェロを弾いた賢治。
愛好家に教えたり、演奏グループをつくったりするほどの準本格奏者。
当時としてはきわめて珍しい写真機や幻灯機を弄んでいたり、
西洋近代芸術と思想にも深く通じていました。
作品の類似性はいちいち挙げるまでもないですが、
ともに、外国渡りの物真似ではない醇乎たるひびきをもった作品で、
読むものに清雅高遊の気分をたのしませてくれる詩。
だれもが気づくのは、独特の擬声音の使い方。
色彩感にあふれていること。屈折した郷愁の思い。
神秘感覚と幻想で紡ぎ出された作品世界。
そのこころの底にあったのは、
朔太郎の場合、以前にも書きましたが、
エレナ(馬場ナカ)という女性に描きつづけた夢想ですね。
初恋の(片思いの)女性、夭逝した人妻に寄せる死姦的な慕情が生む幻想。
賢治の場合は、トシへ寄せる数々の詩のほか、「銀河鉄道の夜」。
未完のままでおわっている作品ですが、
この宇宙の旅こそは、妹トシを求める果てしない旅でした。
1886年に生まれ、57歳で歿した朔太郎。それから10年遅れて
1896年に生まれ、37歳で他界した賢治。
「月に吠える」の出版が1917(大正6)年、朔太郎32歳のとき、
「春と修羅」の出版は1924(大正13)年、賢治28歳のときでした。
ほぼ同じ時代を生きたわけですが、ふたりの詩人が直接どこかで
顔を合わせた、ということはないようです。

さて、わたしごときが勝手にふたりを「似ている」と決めつけても
説得力はないわけですが、…ありました、ありました、
それを傍証してくれる資料が見つかりました。
賢治がこころをゆるす友だちのひとりに阿部孝という人がいました。
盛岡中学時代の優秀な同級生で、この人が東京帝国大に在学中、
何度か賢治はその下宿先を訪ねているという記録。
阿部の書棚から朔太郎の「月に吠える」を見つけた賢治、
「ふしぎな詩だなあ」と言ったといいます。それから1年ほどして
賢治は詩の原稿を持っていって阿部に見せています。
「ばかに朔太郎ばりじゃないか」と阿部が感想を言うと、
「図星をさされた」と、賢治は悲痛な声をあげた、というんですね。
賢治が詩を書くとき、どこかで朔太郎の詩を意識していたことは
ほぼ間違いないと思います。

ただ、そのことが賢治の詩を貶めるものでは決してないことを
はっきりと断っておかねばなりません。賢治も朔太郎も
わたしのもっとも敬愛する詩人です。

  

Posted by 〔がの〕さん at 17:37Comments(4)TrackBack(0)詩、短歌

2010年09月21日

P/詩のたのしみ


ハシャータ・サンゴリッチ


詩歌には(いや、文学一般、芸術一般、といえるでしょうか)、
表現されたものだけでは捉えきれない、
奥に秘められたドラマがあり想念がありますよね。
たとえば、郷土を同じくするものでなければ捉えられないイメージ、
時代を共有するものでないとつかめない「風」のようなもの。
たとえば、前記の「帰郷」について。
いまですと、上野から前橋なら、高崎で乗り換えるとしても、
1時間かそこら、アッという間です。
汽車が窓の灯りを飛び散らし、
遠くへボオ~ッ! と吠えたけぶこともありません。
わたしの大学時代でさえ、電化されたとはいえ、
高崎線各駅停車でとことこ4~5時間はかかったような記憶が。
半分眠って、車輪が線路を刻む音をぼんやり聞いている。やがて
車窓の左に、噴煙をあげる浅間山が見える、妙義山が、榛名山が、
そして裾ながく引く赤城山が見えてくる。
そのころになると、やっと帰ってきた、の思いに至ります、
親兄弟の期待に添えないわが身の不甲斐なさを感じつつ。
「まだ上州の山は見えずや」に、その思いがぴったり重なります。
「砂礫のごとき人生かな!」に、熱い涙を目のまわりにためて。
それと、この詩の背景にある詩人の生きざまですよね。
新しい芸術世界、自由な表現世界を求めて、このころ
朔太郎は鎌倉から馬込村(現在の東京都大田区馬込)に
移り住みます。
そこには新時代の旗手の尾崎士郎がいる、宇野千代がいる。
志を同じにする文士や画家たちが次々に集まってくる。
そしてゴシップまみれの淫靡な特殊社会が生まれていきます。
“モボ”たち、“アプレゲール”たちが、明けても暮れても
ダンスに興ずる日々。「宵闇せまれば 悩みは果てなし…」
といった曲に合わせて、何度も何度も。
そんななかに朔太郎の妻、稲子さんもいました。
放縦な生活の穴にはまって惑溺し、深く、また深く転落、
幼い二児を残して若い学生と出奔してしまいます。
残された詩人は、デカダンスのなかで生活破綻、自殺もならず
幼いふたりの女の子をつれて郷里に帰ります。
あれほど嫌い、反発して飛び出した郷土へ、敗北の思いを抱えて。
「帰郷」はそのときの詩ですよね。
利根川のほとりに魂の抜けた人のようにして立つ詩人の姿が
わたしにははっはり見えるような気がします。
帰った郷土は、そんな親子をハイハイと受け入れてくれるほど
甘いところではありませんでした。
幼い子たちがどれほど周囲からひどいめにあったかは、
娘の萩原葉子さんがのちに書いた小説「蕁草(いらくさ)の家」
「閉ざされた庭」「輪廻の暦」などに詳しいですね。

長くなりましたので、「夜汽車」については、簡単に。
これは、詩人の死にたいような憧れによる幻想ですね。ウソの話です。
朔太郎には、生涯、秘められたままの恋がありました。
初恋だったでしょうか。相手は、
妹の友人のひとりで、エレナと呼んだ美しい少女。クリスチャンでした。
この女性は、女学校を卒業して間もなく、隣の町の若い医師と
結婚してしまいます。詩人の気持ちなど知る由もなく。
ところが、結婚して何年もせず、病気で亡くなります。
夭逝した人妻、初恋のひとに寄せる思いが
京都、山科へ向かう夜汽車での道行となり、
こんな死姦的な夢想となって作品化された、
…とわたしは見ています。



  

Posted by 〔がの〕さん at 14:27Comments(3)TrackBack(0)詩、短歌

2010年09月19日

P/愛する詩人の系譜


 >がのさんの一番お気に入りの詩をアップしてくださ~い。楽しみにしています。〔2人3脚さんの9月19日のコメント〕

と問われて、ハタと困ってしまいました。
好きな詩、好きな詩文といったら、いろいろありすぎて…。
海外の詩人でいえば、まず、サッホーをはじめとするギリシアの古代詩人たちがいるし、さらに
思いつくままに挙げると、バイロン、ゲーテ、テニスン、ロングフェロー、ツルゲーネフ、プーシキン、意外がられるのですが、一時期かなり凝ったのがフランシス・ジャム。「野うさぎ物語」などは、何回も何回も、そのたび涙をこぼしながら読んだ記憶があります。ほかには、ゲオルグ、ホフマンスタール、D.H.ロレンス、アイヒェンドルフ。比較的新しい傾向の詩人では、アポリネールやルネ・シャール、アンリ・ミショー。ボードレールやランボーはもちろんですね。きりがありません。

きりがないといえば、日本の、詩歌、詩人たちですね。
万葉集からはじまって、あえてそのなかで絞るとすれば、
萩原朔太郎、三好達治、若いころにたくさん読んだ立原道造、中原中也、富永太郎、宮澤賢治、高村光太郎など。
宮澤賢治については、童話とともに、現役時代の仕事のなかで専門的な格闘をしたことがありましたし、わたしにとってのライフワークのひとつが萩原朔太郎の人とその詩です。
朔太郎はわたしの郷里の詩人であり、高校(彼にとっては中学)の先輩なんですね。わたしの高校時代、彼が高校(中学)の文芸誌に残していた短歌を発掘、文化祭の記念誌にそれを載せたのを機に、地元新聞社が、つづいて中央の大新聞社がつぎつぎに採りあげるなど、第一次朔太郎ブームのきっかけとなりました。
探れば探るほど、謎は謎を呼び、わたしの筆力では書いても書いてもなかなかまとまりません。たぶん、まとまることなく終わるのだろうと、いまは覚悟はしておりますが。
さて、朔太郎のどの詩を、となると、頭が痛み、混乱して迷うのですが、すぐ口からとびだすわたしも好きな詩であり、人口に膾炙されているところで、「帰郷」を。

    帰郷

  わが故郷に帰れる日
  汽車は烈風の中を突き行けり。
  ひとり車窓に目醒むれば
  汽車は闇に吠え叫び
  火焔(ほのお)は平野を明るくせり。
  まだ上州の山は見えずや。
  夜汽車の仄暗き車燈の影に
  母なき子どもらは眠り泣き
  ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
  嗚呼また都を逃れ来て
  何処(いずこ)の家郷に行かむとするぞ。
  過去は寂寥の谷に連なり
  未来は絶望の岸に向へり。
  砂礫のごとき人生かな!
  われ既に勇気おとろへ
  暗澹として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
  いかんぞ故郷に独り帰り
  さびしくまた利根川の岸に立たんや。
  汽車は昿野を走り行き
  自然の荒寥たる意志の彼岸に
  人の憤怒を烈しくせり。

声に出して読みたくなるリズム感に、知らず識らずのうちに酔ってしまいます。それにしても、朔太郎を一篇の詩で語るのは、あんまりといえばあんまりで、せめてその秘められた恋を解くカギのひとつとなるであろうもう一篇を載せさせてもらいたいと思います。「夜汽車」という詩。

  有明のうすらあかりは
  硝子戸に指のあとつめたく
  ほの白みゆく山の端は
  みづがねのごとくしめやかなれども
  まだ旅びとのねむりさめやらねば
  つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
  あまたるきニスのにほひも
  そこはかとなきまきたばこの烟さへ
  夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
  いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
  まだ山科は過ぎずや
  空気枕の口金をゆるめて
  そつと息をぬいてみる女ごころ
  ふと二人かなしきに身をすりよせ
  しののめ近き汽車のまどよりながむれば
  ところも知らぬ山里に
  さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

(★オダマキ/画像をクリックすると、大きくなります。)

  

Posted by 〔がの〕さん at 23:33Comments(2)TrackBack(0)詩、短歌

2010年08月13日

O/読書とメガネ

知ってはいたのだが、
加齢、そして視力の衰えに伴い、メガネの度数が合わなくなっていた。
そのため、読書が少々つらいものになってきて、
気持ちはあっても、本に向かい、ページを開くのが、
なんとなく億劫になっていた。
読んでも長くはつづけられない、疲れる、集中できない。
とりわけ、文庫本の小さい文字を追うなどは、もう、ほとんど困難。
したがって、名作のはずのものも、こちらに伝わるものが少なく、
味が薄められて、興味が削がれる、……その悪循環。
それなら早く視力検査をしてメガネを作り替えればいいのだが、
それもなんとなく億劫で、従来からの遠近両用メガネで
どうにか凌いできた。

ある日、家内が転倒したおり、メガネのフルームを
おおきく歪めてしまった。再三メガネ店に行って
なおしてもらってきてくれ、とうるさく言われ、仕方なく
行かねばならない仕儀になった。その折、ハッと思いつき、
わたしも視力検査をし、老眼鏡を新調することにした。

白蝶草

七月末、それが出来上がって、さっそくかけてみれば、
まあまあ、なんとよく見えること! 
まるで魔術のように、世界がくるりと回転し、
ぜんぜんちがう風光を見せてくれているかのよう。
文庫本も新聞も資料類も、問題なし。
それに、以前の遠近両用メガネだと、
パソコンの画面を見るには、レンズの下部を通して
見なければならず、顔をぐっと押し上げることになる。
書店の上のほうの棚を見るときも、そんな具合いで、
たちまち首筋が痛くなり、肩が凝った。

その不具合から解放されたうれしさには、大きなものがある。
ハッピー気分で、うれしくてたまらない思い。
ただ、本や新聞を読む、パソコンで作業をする、
といった以外のときは、これを掛けては動けない。
足元が不安定で、よろよろしてしまう。
ふだんの生活や外出のときは、
以前から使っていたものに掛け替えねばならない厄介な手間
は生じた。ときどきそれを忘れて立ちあがって、
あぶなく転倒しそうになったことも何度か。それでも、
足に合った靴を履くことの大事さ、快適さを
教えてもらい、体感したばかりだったが、
こんどは、自分の視力に合ったメガネをかける快適さを
エンジョイさせてもらっている。
読みたい、読んでおかねば、と思いつつ
テーブルわきに積み上げておいた本のヤマが、いま
どんどん崩れつつある。うれしいナ。

  

Posted by 〔がの〕さん at 21:09Comments(7)TrackBack(0)その他

2009年11月10日

F/「青春」ふたたび


10月度のテーマ、サミュエル・ウルマンの「青春とは、心の若さである。」は、主宰者が所用のため欠席、メンバーの自主活動となりました。しかし、世話人の連絡によると、不十分な活動に終わってしまったため、もう一度改めて、とのことで、11月19日(木)午後1時30分より、この同じテーマでおこないます。

これは、ウルマンの78歳のときにまとめたもの、それを80歳になった記念に家族が自費出版、その無名の詩人の作がある経路を経てダグラス・マッカーサー元帥の目にふれ、座右の銘となり、まず日本で翻訳され愛読されたもの。日本の、主として財界人によって評価され、広い読者を得てやがてアメリカに伝わり、逆輸入された詩です。

それに、この詩集の冒頭の代表作「青春」は、簡潔なことばに人生への美しいメッセージが凝縮されていますが、ある人からの情報によると、この詩の背景には、タイタニック号の海難事故の悲劇がこめられているといいます。わたしにはそれを歴史的に検証することは今はできていませんが、それは1914年4月におきた世界最悪の海難事故で、北大西洋航路に就いたイギリスの豪華客船が氷山に衝突して沈没、1,500人余りの命が喪われた、映画にもなってよく知られた悲劇。

詩集はウルマンの70歳代から書きためたものを、78歳のとき、つまり1917、8年ごろにまとめたとすると、なるほど附合するように思いますが、さて、どうでしょうか。それと、1918年といえば、第一次世界大戦がようやく終局を迎える時期。敬虔なユダヤ教徒の父母と11歳のときドイツから命からがらアメリカに亡命してきた詩人の晩年のこころに去来していたものは、何だったのか、みんなでいっしょに探っていきましょう。


  

Posted by 〔がの〕さん at 23:39Comments(0)TrackBack(0)名作鑑賞〔海外〕

2009年09月20日

F/60歳、70歳の透き通った青春



  青春とは臆病さを退ける勇気、
  安きにつく気持を振り捨てる冒険を意味する。
     … … …
  年を重ねただけで人は老いない。
  理想を失うとき初めて老いる。


サムエル・ウルマンの詩集「青春とは、心の若さである。」の冒頭に
ある「青春」からの抜粋です。作山宗久゠訳。来月10月15日(木)は
この詩集を読みます。各自、お好みの3編を選び、朗読してもらいま
す。選んだ詩編がほかの方と重なってもかまいません。それぞれの
思いを込め、それぞれの読み方で味わい尽くしましょう。

  六〇歳であろうと一六歳であろうと人の胸には、
  驚異に魅かれる心、おさなごのような未知への探求心、
  人生への興味の歓喜がある。

                      (同上「青春」より)

ユダヤ人社会に生きた幻の詩人。正義を信じ、平和を愛し、虐げら
れた者への限りない慈しみにあふれた幾多の業績をもつ人物。
80歳をすぎたその高潔なこころにひろがる透き通った風景に、ひと
ときこころを遊ばせましょう。
若い時代を見送ったわたしたちに対する、あたたかく清新なメッセ
ージがここにあり、胸にひびきます。第86回《どんぐり》は、それを
交響させあう時空にしたいと思います。

※サムエル・ウルマン「青春とは、
心の若さである。」作山宗久゠訳、角川文庫/TBSブリタニカ

※上の画像はウラジロヨウラクです。



  

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2009年08月07日

F/争いが毀していくもの、人から奪っていくもの


8月の《どんぐり》読書会はお休みです。
ただし、定例の第三木曜日(20日)は、午後1時30分より
有志による昼食懇親会をおこないます。
よろしかったらどうぞご出席ください。
(ご自慢の一品料理などを持ち寄りながら)
9月17日(木)は通例どおり午後1時30分より、
すすき野コミュニティハウス研修室にて。

わたしたちの読書会は、たくさんの作品を次つぎに読む
ことを目的にはしておりません。時には立ち止まって考え合い、
他の角度から味わい直すことも多々。
という次第で、前回はショーロホフの短篇集「人間の運命」から
「他人の血」を読み、血縁の強さ・弱さをみんなで話題にしました。
9月は、もう一度この作家の作品に戻って、
夫の二人いる女子持ちの男の2篇を読みます。
戦争・内乱が毀していく庶民の生活、それが
引きちぎっていくもの、負わせるものの意味をあらためて
考えてみましょう。

時いまは8月。忘じがたきヒロシマ、ナガサキ…。
日本の8月は世界の平和への祈りがもっとも高まるとき。
峠三吉の詩「ちちをかえせ ははをかえせ…」
原民喜の詩「永遠(とわ)のみどり」…、などを
戦争のない世界への祈り、核廃絶の願いをこめて
声に出して読みあげる季節。
与謝野晶子「君死にたまふこと勿れ」
茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」も。

微力なわたしたちにいまできることは何か、についても
この機会に考えてみたい。

※上の花の画像は「バイカウツギ」

  

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2009年07月17日

F/革命の下、何が生まれ、何が毀され、何が喪われたか


ショーロホフ「人間の運命」より、「他人の血」

☆ドン川とともに生きる人びとの質朴な暮らし。そこに第一次世界大戦、ロシア革命、国内戦がおこり、人びとのあいだに対立が生まれ、不条理な勢力図の動きのなかに、拒みようもなく巻き込まれ、揉みくしゃにされていく。その人間模様と粘り強い生き方を包んで、雄大な自然が叙事詩のように表現されている作品。

☆人間の生活信条、生活様式が、その地の歴史と風土的環境といかに深く結びついているかを見ることができる。かつての日本に見られた、質朴な、飾りないこころの風景に似た男と女たちへの、なつかしい郷愁に誘われる。

☆ロシア文学の名作は、ふつう反体制の思想から生まれているが、ショーロホフはソビエト体制側の作家とされる。だが、ここにはその印象はあまりなく、コサック民族主義の色合いが強い。

☆1917年、ロシア革命。三月革命゠労働者の武装部隊(赤衛軍)による革命で臨時政府を樹立。十一月革命゠レーニンによるソビエト政府の樹立。このボルシェビキがつくる政権に対抗して蜂起したのが、貴族たちを中心とする反革命軍の白衛軍。

☆内戦時の赤衛軍・白衛軍の血みどろの戦いに翻弄され、激しい愛と憎しみのなかに生きるコサックたちの悲劇的な運命を、随所でリアリスチックに、力強い筆致で描き出している。

☆ここに描かれているのは、戦争、内戦のなかで傷つき痛めつけられた人びとの悲惨と不条理である。「子持ちの男」にあっては、敵味方に分かれた父と子、たくさんの子どもをもった父親は、残る子たちのために実の子を殺さねばならなかった。そのために娘には生涯、疎まれて生きねばならない父親の、悲惨の極み。

☆戦争によって何もかも失った兵士の、その後の人生を描いた短編「人間の運命」。

☆戦争によって引き裂かれた男と女の、そのあとの生き方。これぞ運命、という鎖と錘に縛られたような、どうにもならない波に弄ばれる哀切な人生の流れ。

☆戦争で息子を奪われた老夫婦の、子を思う気持ちの強さを哀しいほどの深さで表現している「他人の血」。ケガをして瀕死状態にある敵方の若い兵士を救い、息子の身代わりにして慈しむ、その愚直なまでのやさしい人間性。しかし、やはり他人は他人、という冷厳な現実が。

※画像の花は、フロクッスまたはオイランソウ


  

Posted by 〔がの〕さん at 10:13Comments(0)TrackBack(0)名作鑑賞〔海外〕

2009年07月03日

F/ショーロホフ「人間の運命」


どんぐり読書会=7月度∕第85回
 ロシアの人びとが味わった革命の痛みと、そこにじっと耐えつつ生きる素朴な人間たちの真実と人間愛を描いた大長編叙事詩「静かなるドン」「開かれた処女地」で知られる作家の中短編集「人間の運命」。米川正夫・漆原隆子゠訳、角川文庫。

 ドン・コサックの生活そのままが、淡々と、しかし愛情深く描かれている作品群。とどめようもなく流れる大河にも似て、どうにもならぬ運命、苦悩に満ちた運命を生きる貧しい人たち。鉄のように強く、雄々しく、また、苦痛をかみ殺して楽しげに、けなげに…。それは哀しいまでに美しく、印象あざやかに読むものの胸に突き刺さる。

 所収の五編それぞれが珠玉のような好編だが、今回はこの中から「夫の二人いる女」「他人の血」を中心に読み、話し合ってみましょう。
7月16日(木) 午後1時30分より、すすき野コミュニティハウスにて。

※画像の花は「レンゲショウマ」、奥多摩・御岳山にて



  

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2009年06月19日

F/「サロメ」の秘密

オスカー・ワイルド「サロメ」

6月18日、オスカー・ワイルド「サロメ」を読む。この作家のものは、2001年の夏、「幸福の王子」「ナイチンゲールとばらの花」などを2回にわたって読んできている。上記の作品など、児童向け作品として読まれることが多いが、今回はがらりと雰囲気を変えて、どろどろした男と女の愛欲の世界へ…。

〔あらすじ〕
ユダヤ王エロドは、兄である前王を殺して妃エロディアスを奪い、王座につく。前王と妃のあいだに生れた娘サロメの美しさにエロド王はすっかり魅せられてしまう。絶えず向けられる邪心に満ちたその目に耐えかねて、サロメは宴の席をはずす。向かったのは、牢に閉じ込められている預言者ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)のところ。不吉なことばをわめき散らすこの預言者を、妃はひどく嫌っている。彼との接触は厳禁されていたが、サロメは見張り番の青年を色仕掛けで懐柔し禁を破らせる。預言者ヨカナーンを見てしまったサロメは一目で彼に恋してしまう。にも拘わらず、預言者のほうは王家の人倫にもとる宿運とサロメのいまわしさをなじるばかりでぜんぜん関心を示さない。そして事態は、万人を震撼させる戦慄のドラマへと急展開する。

残忍で好色な血を受け継いで王座を奪いとったエロド王とその一家の呪われた運命、華麗にして不幸な物語であり、その封建的権力による聖者の受難の物語。

原典「新約聖書」と比べつつ
*原典には“サロメ”の名はなく、“ヘロデアの娘”とだけ書かれている。
*それには預言者の生首にサロメがキスする場面などはないばかりか、サロメが生きているヨカナーンに会ったシーンもない。オスカー・ワイルドの奔放な想像力による脚色。

*“ヘロデアの娘”の名が“サロメ”であることが記されているのは、『ユダヤ古代誌』の王家の家系図による。(ネロ皇帝による迫害のなか『新約聖書』がひそかに編纂されたが、そのなかの全20巻の本。歴史書としてはあまり信用できない)
*現代では、オスカー・ワイルドの戯曲やオペラ、バレエにより、“ヘロデアの娘”がサロメであることをだれもが知っている。退廃的にして、妖しい美しさをもつ魔性の女として、ある種の憧れをもって今日まで人口に膾炙されている。文芸のおよぼす力をここに見ることができようか。

*サロメはなぜ預言者ヨカナーンの生首を望んだのか。
 ・「新約聖書」のなかでは、ヨカナーン(ヨハネ)の生首を所望したのは、妃エロディアとなっている。
   ヨハネはエロド王とエロディアの結婚を人倫にもとると咎めた。色好みの男と多淫な女として。尊大なエロディアは、それを我慢ならぬ侮辱とし、ヨハネを逆恨みして処刑を強く望んだ。
 ・サロメは母親エロディアが促すままに、素直に母に加担したようになっている。
・エロド王はもともと処刑にはあまり気が向かなかったが、決心のつかぬまま、処刑に加担する運びとなった。
・寵愛する妃にせがまれても果たさなかったヨハネの処刑を、サロメに促されると決行におよぶエロド王に、娘に対する卑しい野心が見える。
・すばらしい舞いに対するご褒美にヨハネの生首をもらうようサロメをそそのかしたのは妃。
・ご褒美にもらった聖者の生首が処刑人によって銀の楯に乗せられて運ばれてくると、すぐさまそれを母親エロディアに差し上げている。一方、ワイルドの「サロメ」では、生首を抱えたサロメの恍惚感と狂気がたっぷり語られているが。

*サロメは自分を信奉する男にはまったく興味を示さず、自分の美しさにいっこうに目を向けぬ聖職者に、かえって恋心をつのらせる。しかし、その恋心が退けられ、叶わぬと知り、憎さは百倍に増幅されてむごい仕打ちに走る。微妙な女のこころ。

上の画像は「サロメ」を描いたG.Mowrauの代表作  

Posted by 〔がの〕さん at 10:53Comments(2)TrackBack(0)名作鑑賞〔海外〕

2009年05月21日

W/うみかぜの道に詩情と歴史ロマンを求めて


初夏の光と風のなかでおこなった文学歴史散歩。
三浦半島の東端まで。
5月20日、強い太陽光線に顔や腕が焼けてひりひりするほどでしたが、
渺々とひろがる青海原は、煩瑣な日常をすっかり忘れさせ、
気持ちをほお~っと開放してくれる。
潮風の甘い香りは、何よりのごちそう。
弟橘媛が身を投じてしずめてくれたその海は、
古代のロマンを秘めて、この日もおだやかに凪いで…。
どうかな…、と思いつつ、一応プランしていた、黒船ゆかりの久里浜
(ペリー記念館)までは行けませんでしたが、
この日歩いたコースをざっとご紹介いたします。

京急大津――信楽寺(しんぎょうじ)にて坂本竜馬の妻龍子(おりょうさん)の墓参詣。
   ⇒〔バスにて走水神社前〕
走水神社――古事記にあらわれる倭建命(やまとたけるのみこと)と、弟橘媛(おとたちばなひめ)入水の「走水の難」の古伝説をしのんで。
走水・観音崎ボードウォーク(海とあそぶ道)――ブラジル原産の繊維の強い木材イベを敷き詰めた、磯に沿う遊歩道。行き交うさまざまな船が目の前を。房総半島もかすんで…。
横須賀美術館・谷内六郎美術館――ガラスにおおわれた瀟洒な建物。背後に観音崎の森、前面にはまっ青な海原。この日は、近代日本美術の巨匠たちの名品を集めて、「花展-美と生命のイメージ」が開催されていました。常設展示にも思いがけない名作が。

   〔昼食は、釜揚げシラスどんぶりを国道わきの小さな食堂で〕

観音崎公園(県立)――西脇順三郎の「燈台へ行く道」の詩碑など。砲台跡、自然博物館も。岩のうえで磯釣りを楽しむ人、海沿いの遊歩道でジョギングを楽しむ人などがたくさん。
観音崎灯台――浦賀水道を見下ろす日本最初の洋式灯台。1869年1月1日に点灯。明治をつげる光でもあった。現在のものは三代目。34㌔(19海里)まで光が届くという。映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケ地。高浜虚子の「霧いかに深くとも嵐強くとも」の句碑が灯台下に。

   ⇒バスにて「浦賀」駅へ。京浜急行-横浜市営地下鉄にて、午後5時ごろ帰宅。

*画像は、観音崎灯台のてっぺんから房総半島方面をのぞんで。
  

Posted by 〔がの〕さん at 12:04Comments(0)TrackBack(0)文学・歴史散歩

2009年05月07日

W/日本の長い眠りを覚ました黒船


 横浜市では、開港150周年を祝う記念行事がおこなわれています。4月28日から9月27日までの153日間、みなとみらい地区をメイン会場にして。
 5月20日のわたしたちの第10回《どんぐり》文学歴史散歩は、この祝典とは直接的にあまり関係ありませんが、鎖国を解いて日本に新しい朝をもたらした地をめぐることになります。そのへんの歴史を、との声に応え、散歩に先がけて少しだけご紹介いたします。

 アメリカからの使節ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に姿をあらわしたのが1853年のこと。それまでの日本人の常識を超える、途方もなく巨大な「黒船」は、いかにも威圧的で、日本じゅうが右往左往。すでに末期にあった徳川幕府も、蜂の巣をひっかきまわしたような騒ぎでした。
 このときは、ペリーはさしたることもなくいったん帰国しましたが、翌1854年、今度は500人の軍人を率いてふたたび横浜にやってきました。スタンドプレイとの批判を一身にかぶるなか、幕府の井伊直弼大老はついに話し合いに応じ、日米和親条約を結びます。その内容は、暴風雨に遭遇してアメリカの船に損傷が生じたとき、それを保護すること、アメリカ船に水や食料や燃料を補給する、といったもの。そのため、下田と函館の2港を開くことに応じました。「治外法権」で外国人を日本国内では裁けない、などの不利はあったけれど、わずか2港とはいえ、200年余にわたる日本の夜、鎖国が解かれ、日本の歴史がクリルッと変わった瞬間で、これを機に欧米の文物がドッと日本に入ってきました。

 ところで、ペリーはなぜ横浜に来たのでしょうか。それは、将軍のいる江戸に近かったことと、横浜の海が深く、大型の船の停泊に好都合だったことによります。家が100戸ほどしかない小さな農漁村だった横浜。森鴎外(林太郎)の作詞による横浜市歌をご存知でしょうか。明治42年(1907)、開港50周年記念大祝賀会式典ではじめて披露されたものといわれます。その歌詞の一部、

 「むかし思へば苫屋(とまや)の烟(けむり) 
 ちらりほらりと立てし處 今は百舟(ももふね)百千舟(ももちふね) 
 泊る處ぞ見よや…」

文豪の森鴎外が実際にその眼で見たかどうかはわかりませんが、海に沿って粗末な掘っ立て小屋があり、そこからケムリが一すじ二すじ立ち上っているという風光。当時の横浜のおもかげをしのぶことができますね。
 本格的な貿易がはじまったのはさらに4年後の1858年、アメリカとのあいだで取り交わされた日米修好通商条約から。翌年の1859年、つまり150年前、横浜と函館が開港されました。つづいてイギリス、フランス、ロシア、オランダとも条約が締結され、加えて、長崎、神戸、新潟の5港も世界への窓口となりました。
  

Posted by 〔がの〕さん at 11:38Comments(0)TrackBack(0)文学・歴史散歩