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2024年02月25日

F/貧しき人びと ドストエフスキー

貧しき人びと ドストエフスキー




貧しくも質実に生きてなお、不幸
これは、フョードル・M・ドストエフスキー(1821-1881)24歳のときに発表された処女作。これが大批評家ベリンスキーに“第二のゴーゴリ”の登場と激賞され、一躍人気作家になった。以降の数かずの大作の出発点となったのがこの作。言わずと知れた19世紀ロシア文学を代表する世界的な巨匠。
            ☆
往復書簡の形の日記的な文章を織りまぜたスタイルで、その代表作『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』、『悪霊』、『白痴』などのドストエフスキー小説に見る硬質さの一般的な印象とは異なる、抒情的で感傷的でもある作品。その内容の概略は……。
大都会のペテルブルグに暮らす中年の小役人、九等官の書記マカール・ジェーヴシキンと、不幸な運命に弄ばれる田舎出のワルワーラ・ドブロショーロア(ワーレンカ)という貧しく清らかな少女の不幸な恋を、笑いと涙、喜劇的要素と悲劇的要素を交えて活写した作品。ふたりは、互いに窓と窓を通して出かけるすがたが見えるほどのところに住んでいるが、病気で臥すときなど、よほどのことがないかぎり、行き来することはない。遠い親戚の関係にある。親子ほどに年齢差があり、男は少女に対して保護者のような慈愛を傾ける。慈愛の影に見え隠れする、傷つきやすい、つつましい恋の思い、良識的なやさしいこころづかいが。
小心で善良な小役人のマカールはとかく周囲からは侮蔑の目を向けられる。しかし、だれに蔑まれようとも、地味な筆耕の仕事に誇りをもってあたっている。ゴーゴリ(1809-52)が『外套』で描いているアカーキー・アカキェヴィチのイメージがここに投影されていると見られる。
           ☆
ワーレンカの生い立ちも手記の形で語られる。極貧の孤児で病気がち、生活苦にあえぎながらの恵まれぬ生活に耐えてきた。15歳のとき、文学青年ポクロフスキーに淡い恋ごころをいだくが、儚い不幸な初恋に終わる。そこには貧しき人びとの逃げ場のない生き方が描かれる。善良で謙虚、何ごとにあっても真摯でも、世間に認められことのない、生き方のへたな男と女のすがた。そうした「不幸」「不運」をテーマにした作品といえようか。物理的な貧しさは、続いて次つぎに人の貧しさを誘発しないでおかない。悲しいかな、そうした普遍的な真実、普遍的な人間像を捉えようとした作品。そう、「不幸」に「不幸」を掛け合わせたとき、それがペラリと「幸福」に裏返るような奇跡はなく、いよいよ広がり深まっていく「不幸」の連鎖という暗い運命の皮肉。
そうしたなか、マカールが仕事で致命的なミスを冒してしまう。さあ、叱責され侮辱されていよいよ放逐されると思いきや、上司の上官が思いがけない寛容さをみせてくれる。マカールは、こころの貧しさを生み出すのは、他のだれでもない自分自身なのだ、と知る。
ある金持ちの男がワーレンカに求婚する。それは粗暴な男で、結婚は甥から遺産相続の権利を剥奪するためのひとつの手段だった。それがわかってマカールは制止させようとするが、ワーレンカはその求婚を受ける。親切に言ってくれるマカールには恩義を感じながらも、金持ちとの結婚に舞い上がってしまう女の弱さ、哀しい貧しさ。そして、最後まで幸福にはなさそうもないその生涯。
               ☆
1840年代の大都会ペテルブルグに生きる民衆像、その恐るべき貧窮と不安を背景にして描き出した一種の感傷的な小説。情景描写は少なく、ひとの心情の動きを丹念にたどる作品と見られる。


 左・レニングラードにある墓  右・モスクワの記念碑


◆「貧しさ」について、「不幸」について――

20世紀を経て、いま21世紀を生きるわたくしたちにとっての「貧しさ」と、この作品で描かれている19世紀半ばのロシアの「貧しさ」とのあいだにはどんな違いがあるのだろうか。そこを考えてみませんか。「贅沢はあまりできない」「便利さとはさほど縁がない」「優雅といえるほどではない」生活だが、家族や友人の笑顔があり、最低程度以上には栄養も摂れていて、そこそこには生きていけるレベルの貧しさ。それとは別に、格差社会の圧迫のなかの貧しさ、いつも死と隣り合わせにある、抜け道のない貧しさ、階級社会における貧しさ。極寒の地に生きる人びとの不幸ときびしさだけでなく、温暖な地にありながらも数かずの不幸な災害や犯罪から免れない事実も。時代の不確かな潮流に流されない、欲に走ることのない清貧な生き方とは…。
  


Posted by 〔がの〕さん at 03:31Comments(0)名作鑑賞〔海外〕

2023年12月25日

F/静かなるドン ショーロホフ

静かなるドン M.ショーロホフ



トルストイにつながるロシア文学の伝統を継ぐ
ソビエト文学を代表する作

1924年、「ほくろ」で文壇にデビュー、つづ2て短篇集「ドン物語」や「ルリ色の曠野」を発表して作家としての地位を確立した。1925年、モスクワから南ロシアのウクライナのドン川河畔のコサックの村に帰郷して創作活動に専念。このころから4部作からなる大長編小説「静かなるドンТихий Дон」を書き始める。第一部の発刊は1928年、1940年に書きあげて刊行した。ロシア革命の前後を背景にコサック社会の移り変わりを雄大なスケールで描いたショーロホフの代表作で、この作品により1941年のスターリン賞、1965年のノーベル文学賞を受けるなど、世界的な名声を博すことになる。 
ミハイル・ショーロホフ、1905~1984 ウクライナの小村ビョーンシェンスカヤに生まれる。商人の家庭で、母は農民、父は中流階級の出身。15世紀以来、自治と自由の精神を守りつづけてきたコサック社会の伝統に強い影響を受けて育った。中学校在学時にロシア革命(1917年)が起き、赤衛軍に参加した。革命委員会の食糧調達係としてドン地方各地を転戦、その体験が作家の素養を育てたと言えよう。1923年、モスクワに出て、石工や人夫など苛酷な肉体労働をしながら、若手プロレタリア作家のグループに入って文学を学んだ。



物語は主として中農のコサックのメルホフ家を中心に展開する。メルホフ家の次男グレゴリーは平穏な代わり映えのない部落生活に飽き足らず、隣家の主婦アクシーニャと出奔したが、貴族の館で下男として働くつらい毎日。第一次世界大戦がはじまるとその前線に送られ、戦闘の残虐さを目の前にして衝撃を受ける。そんなとき、戦友のひとりから新しい社会主義思想を吹き込まれる。一時、赤軍の身を投じ、士官にまで出世するが、以降、反革命隊や白衛軍、またコサックの世論とのあいだで翻弄される。その他さまざまな話が複雑に絡まりあって物語は大河的に展開する。そんななか、ドン地方の風景や風俗がていねいに描写され、とりわけドン川を挟んでコサックが対峙するなど、この川の存在感が印象的である。
第一巻では、第一次世界大戦直前のなごやかなコサックの平和な時代が、第二巻では、大戦中のコサックたちのさまざまな体験や伝統的な考え方が、第三巻では、国内戦の時代、コサックを二分するドン地方の深刻な災厄の状況が、第四巻では、国内戦末期のコサックたちの変容ぶりが描かれる。

この長編大作と並んで、これも長編「開かれた処女地Поднятая целина」を書く。第一部を21932年に発表、第二次世界大戦中の中断をはさんで第二部は1960年に完成した。コルホーズとして農業の集団化政策を実施していくなかでさまざまな矛盾や困難をはらんで進行する1960年代の農村の改造を主題とする作品。その他「人間の運命」「子馬」などの好篇もある。
第二次世界大戦中は従軍記者として前線に立ち、プラウダ紙などに多数のルポルタージュを発表。さらには、ナチスの残虐さを描いた短篇「憎しみの科学」を発表して衆目された。1937年、最高会議代議員に選ばれ、1939からはソ連科学アカデミーの会員として活躍した。

ロシアによる侵攻で苦難を強いられているウクライナの人びとの現在を思い、この時期にこの作を紹介した。かつてのあの牧歌的な日々が彼らに戻りますように・・・。
  


Posted by 〔がの〕さん at 14:14Comments(0)名作鑑賞〔海外〕

2023年09月20日

P/ちいさいおうち V.L.バートン

ちいさいおうち 
V.L.バートン





アメリカの人びとのこころの原郷とその生活史


1942年、第二次世界大戦のさなかに生まれた作品。
19世紀、アメリカの開拓時代に建てられた小さなおうちが、静かな丘陵地にポツンと立っている。リンゴの木、ヒナギクなどの草花に囲まれて、おだやかに、幸せそうに。毎日はそれぞれ違う日とはいえ、小さなおうちだけは、いつもと同じ。
しかし、あるとき、機具を持った人たちがやってきてまわりの土地を測量していったあと、スチームシャベルなどの大型建設機械が入ってきて、ヒナギクの丘を切り崩し、たちまち大きな道路をつくっていった。やがてその道路をたくさんの車が行き来し、道の両側にガソリンスタンドが立ち、さまざまな商店や家が建ちならび、畑や林は消え、大きな家やアパート、公団住宅ができていった。静かな夜は奪われ、月も星も見えない。街灯がひと晩じゅう灯り、車の列は途切れることがない。
小さないおうちに住むひとはなく、だれからも見捨てられているが、持ち主がわからないのでお金で売り買いできないまま、じいっとそこを動かない。電車が走る、高架線が通る、人びとはせかせかと右へ左へ駆けまわる。空気はほこりと煙で汚れ、ごうごうというやかましい音に包まれ、小さいおうちはたえずガタガタと揺れる。さらには、小さなおうちのまわりにあった大きな家や公団住宅も取り壊され、今度は25階、35階の高層ビルがニョキニョキと建つ。もう、町は季節を失い、不眠の大都会へと変わってしまった。
小さいおうちは、むかしの静けさと幸せな日々を思い、自然にあふれたいなかのことを夢にみる。ペンキは剥げ、窓は破れてすっかりみすぼらしくなっていても、土台も壁も屋根も昔のまま、しっかりしていてびくともしない。ようやくこの家を建てた人の何代目かの子孫があらわれ、引っ越しを決める。ジャッキでまるごと車に乗せられた小さいおうちは、ずうっと離れた広い野原のまん中の小さな丘のうえに移された。ここには、朝がありひる昼があり夜があり四季があった。人が住むようになり、外壁は明るい色に塗りなおされる。小さいおうちは、もう二度と町には住みたくないと思った。
自然や簡素な生活から遠ざかれば遠ざかるほど、人は幸福から遠ざかることを言い、自然と人間の調和ある暮らしを求めるアメリカ精神の原型をあらわして、絵と文が間然することなく一致していることなどが高く評価され、1943年のコールデコット賞を受けた名作童話。



バージニア・リー・バートンVirginia Lee Burton米・1909-1968 石井桃子訳のこの「ちいさいおうち」をはじめ、「いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう」「せいめいのれきし」「マイク・マリガンとスチームシォベル」「名馬キャリコ」「はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー」などの名作絵本で、わが国でもおなじみですね。いずれも作者の現実的な生活実感のなかから生まれた絵本。
19世紀の初期に建てられたこのちいさいいえが、フォーリー・コーヴの大通りから約450メートル離れた、静かな丘の低い傾斜地に移されてきたのは1938年という。手入れが施され、ここに住むようになったのがバートン家の人たち。結婚後1年目からこの家に住み、ふたりの子どもを育て、たくさんの絵本作品をつくり、1968年に亡くなるまで、作者はここで暮らした。この丘のうえの家に移ってくるまでの1世紀にわたる星霜のなか、ちいさなおうちは画面のまん中に、ときには幸せそうに、ときには困惑して泣いているような表情を見せながら、もとのところにすわりつづける。しかし、さすがに時流の波には抵抗するすべもなく、それでも結局、幸いにも自然のリズムのある土地へと移される。
乗り物の変遷で時代の流れをあらわし、太陽の動きで一日の変化を、月の満ち欠けで一か月の変化を、四季の移ろいで一年の変化をとらえて、「時」の流れと歴史を表現するみごとな趣向にも注目したい。
  


Posted by 〔がの〕さん at 02:47Comments(0)児童文学